テーブルが狭くなった 体の制御能力と時空感覚

台所に簡易の小さなテーブルが置いてあって、いつもそこで食事をしている。そのテーブルの上に物がごちゃごちゃ置いてあって、食事がしにくくなったなぁ、と最近思っていた。皿を取ろうとして箸を落としたり、醤油さしを倒したり。実感として、テーブルが狭くなった気がしていた。

二人暮らしなので、片づけたくても片付けられない物もあって、テーブルを整理しきれない。

どうしたものかと思案していたのだが、よく観察してみると、テーブルに置かれている物は以前と変わっていないことに気付いた。一体どう言うことだろう、と考えてみるに、どうやら私の体が以前より思ったように動かなくなっていることがその原因だと結論した。

つまり指先や腕の軌道が老化で思ったように動いていないのである。それで細かい作業が出来なくなってテーブルを狭く感じていたのである。

つまり体の制御能力の変化によって、空間もその大きさを変えているのだ。
インドのコルカタでアメーバー性の下痢(アメーバー赤痢)になったとき、甘い飲み物が欲しくなったのだけど、宿から目と鼻の先にあるチャイ屋がべらぼうに遠くに感じられたのは、この作用によるのだろう。

江戸時代に江戸に住んでいる人が京都に行くときに、認知空間での京都との距離間は、現代の人が新幹線で3時間で行く認知空間での距離間とは当然違うだろう。

更にそこから敷衍すれば、江戸の人が2時間かけて10キロ移動するのが当たり前の感覚であるとき、現代の人が2時間かけて100キロ移動するのが当たり前の感覚であるなら、脳内マップの広がりが違うのは当然だとして、時間に対する感覚も違っているだろう。
江戸の人も現代の人も、生きていくうえでしなければならないことはそれほど変わらないのに、それにかかる時間が大きく変わっているのだから。移動時間からは外れるが、例えば、江戸の人が夕食を作るのにかける時間と、現代の人が夕食を用意するのにかける時間は違うだろう。

私の体が更に不自由になって、近所のスーパーに行くのさえ大変になり、調理時間も倍かかるようになったら、距離だけでなく、時間の進み方も変わってくるのだろう。

逆に言えば、運動神経のピークにいる若者の時空世界は私より縮小していることだろう。

最晩年は私の部屋だけが私の世界のすべてになり、私の狭い部屋が広大に感じられるかもしれない。
それはある意味楽しみである。家賃は変わらないのに、部屋が広くなるのだから。

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