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白内障手術がほぼほぼ宇宙旅行だった話

左目の白内障の手術を受けました。術後すぐは眼帯を付けられていましたので、見えるのか見えないのか……正直、不安な一晩を過ごしましたが、翌朝一番の検診で眼帯が外れてみれば、世の中の——正確には、「目の前の診察室内の」ですが——ありとあらゆるものの輪郭がくっきり輝いて見えるではないですか。もちろん、やって良かったです。

たまになら病気になるのも悪くないな、と思うのは、ふだん水や空気のように当たり前に享受している「フツーにあること」「フツーにできること」に改めて気づかされることに他なりません。

昨晩以来、何人かの友人や息子たちからのお見舞いのLINEへの返事にも書いているんですが、

「完全クリアな視力を100とすると、長年かかって緑内障を悪くして、ついに40になってもーた……と嘆いていたものを、原因の半分は白内障だった!と気づかされ、レンズを入れ替えたら70か75にはなった!」

ということかと。

ここでのポイントは一度落ちるところまで落ちて(=40)、そこからの100は到底見果てぬ夢だけど、そこそこにはリカバーした(=70か75)ということ。これが、白内障オンリーが原因でちょこっとボヤけていた視界が、眼内レンズの装着でクリアになっただけなら、今回ほどの「助かった……」という感慨には浸れなかったのではないか、と思うのです。実際、これならこんな僕ももう一度、社会のお役に立てることもあるのでないかという、たいそうな公共心がふつふつと湧いています。僕に寄付を募るならいま。いましかありません。

ところで、「白内障の手術は簡単」とはよく聞く話で、実際、今回、僕の左目の眼内レンズ埋入に要した時間も手術台(正確には「手術チェア」)に乗っていた時間だけなら15分〜20分程度ではなかったか、と思うのですが、これが、執刀医の先生の役割に目を転じると全然違った見方もできましょう。すなわち、これがなかなかに大変!

手術を受けた金曜日は、その医院では白内障の施術日となっているらしく、僕は4番目か5番目の患者のようでしたが、その後も30分おきに待合室にやってくる患者さんの数から想定すると、この「金曜の午後」に眼内レンズを挿れた患者の数はつごう10人は優に越えていると思われます。全員が全員のお目当ては、この個人病院の院長であるナガモト先生ですから、手術チェアに座るに先立つ前準備は看護師さんたちが手分けしてつつがなく整えるにしても、1人30分の手術時間×10人=5時間を、拡大鏡を覗きながら患者それぞれの眼球と向き合うのはナガモト先生より他にいません。その集中力と持続力とにはただただ頭が下がります(……というか、不動不動。手術中は、決して頭を動かしてはなりませぬ)。

ところで、「手術チェア」に座らされてみれば、手術室はどことなく小さな宇宙船の船内のようだ、と直感したのですが、事実、白内障の手術はさながらスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」でした。

「少し眩しいですが、頑張って光を見つめててください」

と船長……あ、いや院長のナガモト先生。

眼内レンズ挿入に関わる主要機材が外国製なのか、音声合成が発する指示や警告もすべて英語であるところも、HAL9000を彷彿とさせるのでした。

患者の鎮静効果のためか、手術室内には基本、ライトミュージックが小さく流れているのですが、ときどきシンセサイザーのエスカレーション音のような唐突なアラートが鈍く鳴り響くのも宇宙船然としています。すると、ナガモト先生、

「患者さんの氏名は? どっちの目?」

と助手に、いまさらながらに訊くのでした。それが、ルーティンなのか、非常事態発生なのか、まな板の上の鯉には知る由もありません。

「タルミヒロノリさん、左目、です」

と、無感情の女性の声が続きます。

必要以上に心配しても詮ないこと。初めは、あれほど眩しかった眼前の光も、いまや等間隔でドクターが洗い流してくれる水流にゆがんで、虹色に輝いて見えます。

歯医者さんがドリルで歯を削るたび水流で洗い流すのと同じ要領で、この目医者さんはレーザーで濁った水晶体を除去するたび水流で洗い流してくれているのでしよう(知らんけど)。その繰り返される作業の一部始終を見開いて(文字通り……)目撃している僕には、何億光年も先にあるという、未知未踏の惑星に接近を試みる宇宙飛行士の気分の高揚感を少しだけ味わえたような気がして、この時間が永遠に続いて欲しいような欲しくないような不思議な心持ちになるのでした。

もちろん「宇宙旅行」はほどなくしてあっけない幕引きとなるのですが、船長に命じられるがままに操縦席を降り、船外に出て見れば、まごうことなきさっきの眼科の待合室。眼帯で覆われていない方の右目はそもそも視力が弱く、待合室のベンチで待つ妻を見つけるのがやっとでした。

「どうだった?」

と妻。

「想像以上に美しかった」

と僕。

「えっ?」

あとであとで、と妻の質問をはぐらかしながら、現金決済オンリーの精算だけはなんとか右目で済ませると、捕らわれた宇宙人のごとく手をつながれた妻に先導されながら武蔵境駅の駅前ロータリーに立ったのが午後3時半過ぎ。

もう明後日から10月というのに街はギラギラと照り返しがキツかったのですが、大丈夫、もう顔を背ける必要はありません。

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