石破さん、手もと原稿は見ないあなたが好き
YouTubeのニュースチャンネル「アークタイムズ」にゲスト出演した時事通信社の山田惠資さんが、今回の衆院選の選挙結果で苦境に立たされている石破茂首相のことで興味深いエピソードを紹介しておられた。
「勉強家の石破さん、スピーチ原稿は自分の手できっちりと書くタイプ。なので(原稿書きに時間をとられて)どうしても人付き合いの方が疎かになりがち」
というのである。立候補者の当落が刻一刻と伝えられ、自民党の単独過半数はおろか、与党全体での過半数の確保も厳しいことが段々に明らかになるなかで、
「一度は辞任スピーチの原稿も書いたに違いない」
と、まるで見て来たかのように言い切る山田さんであった。
開票速報と首っきりで、辞任の弁を考えたり、「いや、これならまだまだイケる」とばかり総理続投の意欲をしたためたり……日曜日の晩の石破さんの心はさぞや千々に乱れたことだろう。
ま、個人的には今回の選挙は、「裏金議員」がまたぞろ落っこちたことで「自民ザマー」とある程度溜飲を下げられて良かったが、この石破さんの「原稿を書かずにはいられない症候群」には少なからずシンパシーを感じてにんまりした。
なんとなれば、僕も「きっちりと書く派」。人前で話す機会が巡って来たようなときは、出だしから締めまで、一度かちっとした完全原稿を書かずにはいられない。
ただ、一度書いた原稿は、二度三度と下読みこそすれ、本番ではチラリとも見ない……というか、そもそもバッグにしまい込んで、手もとにも置かない。
この「下読みすれどチラ見せず」の原則に立てば、ならば、なぜ書く原稿が完全原稿である必要があるのか、大事なこと、言いたいことの要点だけ箇条書きにしたメモでも良いではないか、と自分でも思う。ただ、そこは箇条書きのメモでは駄目で、いつもついつい完全原稿なのである。
ひとつには、若い頃、テレビの台本書きであったことが大きく関係していると思われる。
「台本書き」とは因果な商売で、どんなに溢れるアイデアやウィットに富んだセリフを全編にちりばめ、最高に面白い台本ができた! と自分で勝手に悦に入っても、セリフは最後の最後は演者のもの。演者さんたちがその台本を最大尊重してくれるか、最低限の意図さえ汲んでくれないかはカメラが回ってみないことには分からない。
しかも、ことが単純でないのは、よく書けたなと自分では納得のホン(台本)を演者が忠実になぞってくれたようなときに限って本番はイマイチ盛り上がらず、反対に、さして面白みもないホンも演者が良い加減(よいかげん)に崩してくれて、結果、大バケ、大ウケだったり……「神は現場に宿る」感をいやというほど味わった。
人前でのスピーチも、言ってみれば、台本作家と演者とは別人格。「台本作家」としての自分がホン(スピーチ原稿)の意図するところを重々分かっているのは当たり前として、やはり最後は「演者」としての自分の瞬発力と場の空気感に委ねた方が(ド忘れも含めて)上手くいく、というのが持論である。
首相になって以来、石破さんのスピーチからあの独特の冴えと溜めが消え失せ、いまひとつもふたつも精彩に欠くのは、いつものように原稿はきっちりと準備するのは同じ。ただ、一国の首相としての勘違いや言い間違いを恐れるがあまり、ときに一言一句手もと原稿をチラ見する悪しき慎重さに理由があるのではないか。そんなんなら、自分大好き=ナルシスト岸田文雄の芸風となんら変わり映えしないではないか。
目を逸らすな。チラ見すな。その独特の凄みと可愛げのあるマナコでテレビカメラをガン見せよ。
仮に、史上最短の総理大臣になり果てたとしても、それが一体全体なんだというのだ。そもそもは、「総裁選万年次点の男」で来た石破、一度は首相になれただけで満願成就ではないか。後は野となれ山となれ、「迷ったらフルスイング」(小泉進次郎)しかないのだ。
ぜひここは一度立ち止まって、スピーチ原稿は「下読みすれどチラ見せず」の、いつもの石破茂に戻って欲しい。
プロ自民? 生まれてこのかた一度たりとも自民党に票を投じたことのない僕なれど、なんか石破さんだけは憎めない自分が自分でも不・思・議。
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