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運がいいことは必ずしも良いことではない

僕は運がいい。

幼い頃は色々あったけど、社会人になってから、総じてたいして苦労するわけでもなく、主任→係長→課長と昇進し、28歳で台湾駐在を任命され、38歳で課長として、台湾のサービスセンターで、クレーム対応をしていた。

台湾に駐在できた理由は、本当にぐうぜんで、趣味で初めた中国語の勉強が、たまたま上司の耳に入り、駐在員に任命された。

NHKの中国語会話のテキストを買い、TV放送を観ながら練習していた程度の、ズブの素人だった。

結果的に台湾に12年駐在し、中国語も日常会話は普通にできて、面白い話をして、笑わせるくらいにはなった。

1.チヤホヤされてからの転落

51歳になり、僕の社会人生活を振り返ると、38歳で課長になった時が、1番ブイブイ言わしていた。

台湾でヤクルトスワローズの高津監督と知り合い、台湾の知人の家でいっしょに食事したり、台湾SOGOデパートの副社長と2人で食事したり、今思えば、ずいぶん派手な生活をしていた。

本当は、僕自身の実力ではなく、会社の肩書きや、僕の上司の顔の広さで、たまたま仲良くさせてもらっていただけなのに、当時は完全に自分自身の実力と勘違いしていて、今思い返しただけでも、赤面するくらい奢り高ぶっていた。

台湾での実績を、ある程度会社から認められ、帰国後、課長職として、大阪の本社でマネージャーとして、働き始めるのですが‥

全く役に立ちませんでした。

唯一得意だった中国語は日本では、なんのアドバンテージにもならず、奢り高ぶり、台湾ではマネージャーとしての勉強も怠っていたため、日本に戻ってからは、全く活躍できませんでした。

当時上司だった部長から、「君は海外で駐在し、ご苦労様で役職が上がっただけだ」と、厳しく叱咤され、部下からも「あの課長は仕事ができない」と馬鹿にされ、上から下からやんや言われ、まさにぺしゃんこでした。

そして、ついに課長→係長に降格し、本社では役に立たないと、長期出張で再び台湾で働くこになるのですが、今までのような花形の仕事ではなく、三交代勤務を、朝、昼、晩全てのシフトを、一人でこなす、とんでもない勤務状態で、毎日21時間勤務で、3時間しか自分の時間が無い日々が続き、完全に鬱になりました。

2.鬱でフラフラになり転職

昔から体力には自信があったのですが、2023年の健康診断で、がんの疑いがあり、MRIによる精密検査で、悪性ではなかっのですが、僕が鬱になったタイミングで、妻が三半規管の病気で倒れ、息子もコロナで入院し、家族崩壊の危機となり、50歳で転職することになりました。

3.若い時の苦労が身を助ける

50歳で転職を試みたものの、最初は全く相手にされず、転職エージェントの力も借りて、もう一度自分の能力の棚卸しをし、ようやく転職できたきっかけになったのは、高校卒業し、18歳で働いていた頃に身につけた技術でした。

僕が、18歳で働き始めた頃は、バブル景気が
絶頂期で、その後バブルが弾け、23人いた新入社員の同期は、一気に23→6人の1/4に減り、ていねいに教えてくれた先輩もリストラされ、新人なのに、4倍働かされる無茶振りでした。

その時、僕が担当していたのは、今でいうマテハンという、ロボットを使い人の代わりに、製品を加工機に運ぶ装置の設計•製造の仕事でした。

ロボットで製品を搬送する装置

当時は相談する先輩もおらず、自分で勉強して試行錯誤の上、なんとかモノにしていました。

その時の苦労が30年後、50歳で転職した時に役に立ちました。

18歳の時は、「なんて自分は運が無いんだ」と思っていましたが、その時は苦労するけど、後々になって身を守ることになりました。

運が良いのは、必ずしもも良いことではない。
運が悪いことも、必ずしも悪いことでもない。

紆余曲折こそ人生だと割り切れば、
僕は運がいいと思う。

転職後の紆余曲折はコチラ↓

(つづく)

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