「棒で球をぶっ叩く」ように、書く

ゴルフエッセイの名手、夏坂健さんに、こんな趣旨の一篇がある。

有名コーチの元にある日、長年スイングに悩むアマチュアが興奮してやってきた。
「ついに、スイングの神髄をつかんだよ!」
コーチは心の中で「またか」と苦笑する。
「ぜひ聞かせてくれ」
「地面に落ちている球を! 棒でぶったたくみたいに! ボールをクラブでぶっ叩けばいいんだよ!」
「それでうまくいくのかい?」
「信じられないくらいスムーズにスイングできて、まっすぐ飛ぶんだ!」

ゴルフは突き詰めれば「地面にあるボールを棒でぶっ叩く」競技だ。
素人なら、ベースボールグリップで、スタンスもトップもフォロースルーも何も考えずにクラブを振った方が、うまく打てるだろう。
無論、上達にはそれを超える「型」が必要だ。
それでも、ゴルフの本質は「球を棒でぶっ叩く」なのだ。
夏坂エッセイのエピソードは、「正しいスイング」という迷路にはまりこんだアマチュアが本質に立ち返り、それでもなお「ゴルフのスイング」という枠組みでしか本質を捉えられないところに、おかしみがある。

同じようなことは、私の趣味のビリヤードにもある。
「手球をここで止めたい」という強弱のコントロールは、「球を棒で突く」という本質からアプローチした方がうまくいく。
「フルショットの30%」とか「テイクバック何センチ」といった調整では、ショットは安定しない。
「型」よりも、「球を手で転がしたら、こんな感じで走りそう」という身体感覚の方が役に立つ。
物を投げたり転がしたりという動作は、人生で何万回とやっているのだ。
特殊な動作より、身体感覚を呼び覚ました方が自然な動作を引き出せる。

文章の唯一のタブー

さて、本題です。

文章を書くとき、多くの人は気負ってしまう。
私だってそうだ。
「うまいこと書いてやろう」「恥ずかしくない文章にしよう」
そんな気持ちがわき起こる。

でも、「文章を書く」という営みは、突き詰めれば、「一文字ずつ、一文ずつ、書きたいこと、伝えたいことを書きつらねる」ことでしかない。
ゴルフやビリヤードのように、ある領域に達するため、それなりのものに仕立て上げるため、「型」や技術は要る。
それが試行錯誤や訓練で身につく面もある。才能もあるだろう。

でも、やっぱり、突き詰めれば「書くこと」はシンプルな営みなのだ。

以前、この投稿で、保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』を紹介した。

当該箇所を再引用する。

原稿用紙やパソコンに向かったとたんに頭が小説モードに切り替わってしまうのだ。その結果、どこかで読んだような、きわめてステレオタイプな小説が出来上がってしまうわけだが、書いている本人はそうでないと小説ではないと思っている。つまり、小説の外見に守られることで、小説を書いているつもりになっている。 
保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』

保坂は「小説モード」で書かれたものは、「小説ではなく、すでにあるものになってしまう」と喝破する(太字は原文では傍点)。
「型」に絡めとられ、スイングの本質、「球をぶっ叩く」から離れてしまうのだ。

文章を書くことは、自由な営為だ。
「自由とは文章を書くことだ」とひっくり返しても成り立つぐらい、自由だ。
何を書いても、どう書いても、構わない。
でも、私はひとつだけ、避けるべきことがあると思う。
それは、「『文章を書く』という意識にとらわれて書く」ことだ。

この世には、「それは本当に『自分が金を払ってでも読みたいこと』ですか?」と書き手を問い詰めるパンドラの箱も存在する。

これは「そういう境地もありますよ」という話であり、胸元いっぱいどころか、胸骨陥没レベルのインハイだ。

地べたに転がった球をぶっ叩くように、あなたのスイングで、書けばいい。

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