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良い勲章 悪い勲章

この前の三連休に、地元・名古屋に帰省した。正確にいえば、名古屋郊外の丹羽郡大口町という人口2万3000ほどの町にある、妻の実家に行った。

帰省の目的は、昨秋、藍綬褒章を受けた義父の受章記念パーティーに参加することだった。

内閣府のサイトによると、藍綬褒章の授与対象者は以下のようになっている。

・会社経営、各種団体での活動等を通じて、産業の振興、社会福祉の増進等に優れた業績を挙げた方
・国や地方公共団体から依頼されて行われる公共の事務(保護司、民生・児童委員、調停委員等の事務)に尽力した方

義父の受賞と今回のパーティーは、私の勲章・褒章制度に対する見方を大きく変えた。記憶が鮮明なうちに文章に残しておく。

晩節を汚す人たち

以前、私は勲章・褒章制度にあまり良いイメージを持っていなかった。
若いころは完全に無関心だったのだが、大人になって勲章ほしさで晩節を汚すケースや「叙勲運動」のしょうもない話をちょいちょい耳にするようになったからだ。

周知のことと思うが、叙勲には「相場」がある。
経済界で言えば、財界や業界団体のポストのグレードと在任期間でもらえる勲章の「格」がおおよそ決まる。役人なら、上りポストの高さや天下り先での滞空時間、議員なら当選回数・在職年数、閣僚経験の有無などが勲章の「格」を左右する。

これが、人の引き際を誤る原因になることがある。
昔ほどではないと思うが、財界のポスト争いや無理な再選を狙う議員の動機に叙勲が絡んでいるという話は、そう珍しくもない。
そんな愚行に走るのが、いわゆる「俗物」だけなら、まだ救いがある。
だが、残念ながら「人間の最後の欲は名誉欲」と言われるように、勲章には魔力がある。現役時代、恬淡としていたある経営者が、晩年、叙勲ピラミッドの上位を目指すかのような行動をとっていると耳にして、「これは罪な制度だ」と思ったこともある。
「名誉」のために人生の最後の最後で評判を落とす。
何とも皮肉で、滑稽で、悲しいことではないだろうか。

昭和天皇が文化勲章にはめた「枠」

叙勲を巡っては、亡くなった政治評論家の岩見隆夫が「陛下の御質問」で、昭和天皇の面白いエピソードを紹介している。

(これは労作。何度も読み返してます)

この本で岩見は、戦後、政治に関われなくなった昭和天皇が、首相や閣僚などの報告を受ける内奏の際の「質問」を通じてさりげなく意思表示をするケースもあったのでないかという、なかなか微妙なテーマを取り上げている。
そうしたタッチ―な部分だけでなく、昭和天皇のあまり知られていない逸話が多く集められていて、どこから拾い読みしても楽しめる本だ。

叙勲についてのエピソードはこんなものだ。
佐藤栄作が首相在職当時、懇意のさる元財閥当主が文化勲章を受けられるよう、働きかけをしていた。その人物は各方面に功績があり、すでに勲一等瑞宝章を受けていたという。
そんな人でもまだ欲しくなるのが、勲章というものなのだろう。
ところが、佐藤が動いても、なかなか文部省(当時)が通さない。
1972年(私が生まれた年だ。どうでもいいですが)に田中角栄に首相の座を譲る際、この件は申し送り事項になった。
田中内閣も引き続き文部省に掛け合ったが、らちがあかない。
ついに田中の側近、後藤田正晴が宮内庁長官の宇佐美毅に直接、「あの件はどうですか」とたずねに行った。
すると、宇佐美は「それは後藤田君、だめだよ」と告げたという。
そこには、「陛下の御質問」の影響があった。

これに先立って、赤木正雄という人物が文化勲章を受けていた。「砂防の父」と言われた治水・治山研究の第一人者で、のちに政治家に転じた赤木について、私はほとんど何もしらない。政治ドラマの舞台となった砂防会館前に銅像が立っていると言われれば、何となくイメージが湧く程度だ。Wikipediaでみると、受賞に十分値する功績を残しているようにみえる。
問題は、この叙勲に際しての「陛下の御質問」だった。
宇佐美によると、それまで文部省が作る文化勲章のリストにコメントすることのなかった昭和天皇が突然、こんな質問をしたという。

「ときに、文化勲章というのは、家が貧しくて、研究費も足りない。にもかかわらず、生涯を文化や科学技術発展のため尽くした。そういう者を表彰するのが本来のやり方とは違うのか」

宇佐美は「その通りでございます」と答えるしかなかったという。
受章は決裁しつつ、この質問によってその後の選定に「貧しさ」という枠を昭和天皇がはめたわけだ。
宇佐美から「そういうことなんだ。だからダメなんだよ」と告げられ、後藤田がその旨を田中に報告すると、田中はあっさり「そうか、これはやめた」と断念したそうだ。
岩見は「『貧しく』という点では、田中にも共感するところがあったのだろう」と記している。

この「貧しさ」という昭和天皇のはめた枠が現状、「生きている」かは、よく分からない。

驚きと納得

時代は飛んで昨秋。私は妻から、義父が藍綬褒章を受けると聞いて、
「ま、ま、マジで!?」
とリアルに大声を出して驚いた。
毎度リンクを張って恐縮だが、「ヒルビリー」な私にとって、身近な人が叙勲されるなんて、想像したこともなかったからだ。
しかし、驚きが収まると、すぐ口をついて出たのは、
「いや、でも、それ、当然だわ。お義父さんがもらわないで、ほかに誰がもらうんだよ!」
という言葉だった。

義父の受賞理由は、地域の防犯・治安活動への長年の貢献というものだ。
義父は現役の郵便局長だったころから、退職後は地元の有力企業の福玉精穀倉庫に籍を置きながら、地元警察と連携して住民自身が治安維持の担い手になる「地域安全パトロール」などの運動の旗振り役を務めてきた。
その功績が受賞につながったわけだが、これは義父が関わってきた地域貢献のほんの一部でしかない。

「帰省で行く嫁の実家ほど退屈なものはない」と言われる。
白状すると、私も夕食がすむとソワソワと抜け出してビリヤードに行ったりするのだが、朝食のときやお昼にコタツでお茶を飲みながら、義父から地元の色んな話題を聞くのは、昔から好きだ。
普段、トランプがどうだ、Brexitがこうだ、株が下がった円が上がったという空中戦ばかり追いかけている身からすると、地に足がついた「こういう人たちが地域社会を『回している』のだな」というリアリティのある話がたくさん聞けるのだ。

たとえば、十数年前の愛知県稲沢市の国府宮神社の奇祭、はだか祭りへの大鏡餅の奉納。田植えの段階から、あらゆる場面でヒト・モノ・カネの調達・調整が必要なかなりの規模のプロジェクトで、仕切り役だった義父から聞くディテールは、美談もあれば、なかなかタフな交渉事もあり、聞いていて「そこまでやりますか」と感服するとともに、「地域ってのは、なかなか一筋縄ではいかないな」と実に勉強になった。

おそらく現在進行形で話を聞いていたら、せっかちな私は「これ、めんどくさすぎて、無理…」という気持ちになりそうなのだが、年1~2回という帰省ペースだと、プロジェクトのダイジェスト版を聞けるので、これがちょうど良い距離感なのだと思う。

ここ数年、義父が熱心に取り組んでいたのは松江市との関係強化だった。
地元出身の戦国武将・堀尾吉晴が松江城を築城し、息子の忠氏が初代出雲松江藩主だったのを縁に、観光や地域活性化で松江市との交流を進めてきた。実際、受章パーティーのスピーチでは、名古屋・出雲の直行便の就航や姉妹都市提携で重要な役割を果たしたことへの謝辞があり、松江城鉄砲隊によるクラッカーを使った「祝砲」のパフォーマンスもあった。

これらはほんの代表例で、20年近くの間、私がつまみ食いで聞いてきただけでも「ここまで地元のことを考えて献身的に働いている人はそうそういないだろう」と感じさせられてきた。
私自身はそういったマインドがほぼゼロな人間なので、正直、「しかし、まあ、何の得もないのに、そこまでやるってのは、どこから出てくる情熱なんだろう」と不思議に感じる面もあった。

昨秋の受章は、そんな長年の私の色んな思いに対する、一つの答えになった。
「ほかに誰がもらうんだよ!」
という言葉は、義父の生き方を見てきて、自然と浮かんだものだった。

地域総出の大祝宴

綺麗に晴れ上がった2月10日の朝、私は会場の名鉄犬山ホテルに着いた。
初めて間近で見て、「昔のオークラみたいな昭和モダンでかっこいいな」という印象を持ったのだが、今ググってみたら、なかなかいい線を突いていたようで自分で驚いた。木曽川と犬山城を臨み、敷地内に織田有楽斎の手になる国宝の茶室「如庵」を抱く県内屈指の名門ホテルだ。

(2階から撮ったホテルの車寄せ。老朽化で近く立替予定とか)

受付を済ませ、義父母や義兄・義妹家族と合流した。残念ながら、今回は三姉妹と妻は受験シーズンど真ん中ということで参加したのは私一人だった。
義父は、とても80歳には見えない、張りのある顔をしていた。万全の体調で晴れ舞台を迎えられてよかったな、と思った。

祝宴は私の想像をはるかに超える大規模なものだった。
地元選出の国会議員や県議会幹部、町議会議員などの政界関係者。
署長・課長クラス勢ぞろいの地元警察幹部のほか、受章理由となった「地域安全パトロール」の関係者。
熱田神宮の名誉宮司や成田山など神社・仏閣関係者。
地元だけでなく、遠く松江市から駆け付けた観光関係者。
長年勤めた郵便局など行政関係者。
勤務先の福玉グループの関係者。
出席者数は、親族や同級生も合わせて百数十人を数えた。
まさに、地域総出の大祝宴。
特に警察関係者の総動員ぶりに、出席者からは「今なら大口町、空き巣入り放題だな」という軽口が飛んでいた。

会場入りの音楽は、娘と孫娘の連弾するピアノ演奏。
その後は開会の辞や来賓の祝辞といった型通りの進行だったが、各氏の挨拶は、こういった席でありがちな空疎な響きを感じるものではなく、一緒に様々な活動に取り組んできた人たちの、義父の長年の献身への率直な感謝の気持ちがあふれるものだった。
祝宴の最後に孫娘二人から花束を受け取った義父が盛大な会への謝辞を述べ、万歳三唱でパーティーは幕を閉じた。

(「撮っとけ、撮っとけ!」と映りこんでしまう高井さん)

無名の人々への賛歌

叙勲の季節、メディアが取り上げるのは芸能人や文化人、スポーツ選手などが大半だ。
ニュースで大きく扱われなくとも、政治家や高級官僚による盛大な受章パーティーは、毎度毎度、あちらこちらで開かれていることだろう。
たぶん私は、そうした功成り名を遂げた人たちの「最後のダメ押し」のような叙勲・褒章には、どこか違和感が持ち続けるのだろう。国民栄誉賞が時の政権の人気取りに使われるのを、しらけた気持ちで見るのに通じるものがある。

だが、叙勲対象者には義父のように、「こういう人こそ受けるべきだ」という無名の市井の人たちも多くいるのだ。
そして、義父の受章パーティーのように、コミュニティーに奉仕した人達を心から祝福する会が、日本全国のあちらこちらで開かれているのだろう。

勲章があろうとなかろうと、そうした人たちの活動の価値や周囲の評価が根本的に変わるようなことはない。それは義父を見ていても想像できる。
それでも、ある人の長年の功績を改めて見直し、それを祝福する節目となる意味で、叙勲というのは良くできた仕組みだ。

斜に構えて、十把一絡げで否定的にとらえてきた自分の考えは、アタマでっかちで視野が狭かったな、と今は思っている。

オマケにしょうもないお話を少々。
東京の自宅に戻り、一夜明けた朝。三女が、
「お土産の、パスポートのマークのお菓子、めっちゃうまかった!」
と言い出した。
何のことかと思ったら、パーティーの記念品の「菊の御紋入りお菓子」だった…。

(確かにパスポートの表紙にも入ってますな、これ)

思いのほか長文になってしまった。
最後に、

お義父さん、あらためて、おめでとうございます!

(義妹の旦那さんの描いたプレゼント。似すぎ、笑)

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