「喜劇のバリエーション」 KERA CROSS【フローズン・ビーチ】 MONO【涙目コント】 りっかりっか*フェスタより、エル・パティオ・テアトロ【ア・マノ】 『テアトロ』 劇評 2019年10月号

 よく語られることだが、悲劇には「誕生」もあれば「死」もある。では喜劇はどうか。相対的に悲劇に比べて喜劇論が薄いとはよく言われるが、古代ギリシャ喜劇に遡れば、それは風刺であり、為政者を嘲笑し、なかば命がけで批判するものであった。もちろん、悲劇がその後で様々なバリエーションをもったように、喜劇もまた多様なものだ。少なくとも古代ギリシャ喜劇とは違う質のものが生まれた。

 そんなことを強く感じる二本をまずあげる。ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲『フローズン・ビーチ』を鈴木裕美が演出した。岸田戯曲賞受賞作で、ケラの代表作の一つ、と世間的にも思われている作品を違う演出家が上演するKERA・CROSSという新しい企画だ。しばしば語られる初期のケラの作風に、スラップスティックのコメディ映画がある。この作品も上演時間は長いが、そのドタバタ喜劇は、乾いた感覚とでも言うべき、全く感傷におもねらず、いつしか終わりへといたる。

 観客の視線をあつめて誘導し、没入させる強固な物語の筋ではなく、単純なウェルメイドでもない。しかし、そのシチュエーションのなかで、ときに残酷に、ときに辛辣に訪れる笑いのシーン、同時代性の反映など、あらゆる断片が入れ込まれて、ぎりぎりに均衡を保っている。実際、伏線もあれば、途中でそれらを投げ出したり、突然なんの関係もなく筋が現れたり、物語だけ見れば、決して上手いとは言えない。いや、そもそも上手く描くことに主眼をおいていない。しかし、それがスラップスティックでもあり、アメリカのB級映画にあるような、荒唐無稽な部分となっていく。

 ある島のリゾート開発とその別荘に住む家族。後妻と双子の娘。ヴァカンスに訪れる二人の女性。戯曲が書かれた頃より10年ほど前のバブル真っ盛りの80年代のシーンから始まり、同時代的な九90年代を経て、2000年代の当時から見て未来のオウム事件とその後のくだりまで、三つの時代によって構成される。

 それは、オウム事件をはじめとした、殺人事件などの犯罪の理由が、物語を作るための単純な動力とならなくなった時代だ。実際、山崎哲の「犯罪フィールドノート」のような作品が後景に退いたのは、演劇に限らず、時代の表象から犯罪の動機と行動というものが滑り落ちたからだろう。それは別役実も語っているとおりだ。単純に因果関係を示せない時代そのものと言っていい。

 また、その作風は単にスラップスティックと片付けられるのではなく、「笑う惨劇」としてのジャンクさとも違う。それは半ばポストモダンとして、大きな物語としての歴史の消失と重ね合わされるべきではないか。いわば、1980年代に登場してきた第三世代と言われた演劇人たちの小劇場ブームの若者感覚としてポストモダンと呼ばれた、たとえばヴィリリオのタームをもじった「速度の演劇」という呼び方よりも、スラップスティックという言葉に隠れてしまったが、よほどケラのほうが、ポストモダン足りうるのではないか。むしろ、背景がないかのような荒唐無稽な笑いのほうが、ポストモダンなるものを正統的に反映した、いわば大いなる歴史の解体を示していたのではないか。

 そのことを思わせたのは単に再演されたからではない。むしろ行動へといたる動機がなくとも、それを遂行できる俳優たちの演技だろう。たとえば、鈴木杏が演じたキャラクターは、場によって、まったく変わっている。そのキャラクターの逸脱さや脈絡のなさを、それもまたありうる人間としての滑稽さに変えていた。オーソドックスとも言える、舞台美術の設えからはじまり、真正面から取り組んだ安定感ある演出は、ケラの初期作品が、実は戯曲レベルで、時代を反映しつつも、ぎりぎりに均衡を保った日本のポストモダン演劇の一つであったことを気づかせるものではないか。

 同じく、出自や傾向はまったく違っても、90年代から名を馳せた劇団MONOの作家である土田英生が、横山拓也、平塚直隆、前川知大の書いた短編のコントを自身の作品を含めて、一つの作品へと構成したものが、『涙目コント』として上演された。もともと、土田の描く笑いは、大げさなものではない。シチュエーションは、日常生活のどこにでもあるような場所。それを一つ設定して、そこにさまざまな人が行き交う。シンプルな作りで、微かな笑いの要素を浮かび上がらせて、やわらかに、ほんのりと包む。これもまた骨太な物語に偏らないものだ。そのような作品をずっと作り続けている。なかば職人気質と言ってもいい。

 今回は、ビルの屋上を舞台に起こるさまざまな出来事だ。むろん、喜劇という性質からして、紋切り型となる状況が設定される。なぜ屋上に彼らは出てくるのか。自殺やカップルといったシチュエーションを基底になされる会話は、想定されうるものだ。しかし、その会話のやりとりや状況設定は微妙に外されて、かすかに日常の想定を超える。また、今作は4人の作家が描くものであるにもかかわらず、世界観が一つの作品へとまとめあげられている。それは、いくつか入れ込まれる土田の短編が全体の統一感を出しているからだろう。コントという寸劇がもつ短編の要素と、笑いの要素がうまく溶け合っている。率直なところ、作風を知らない初見の人が見れば、同じ作家が書いたものとして、そのまま受け入れられるのではないか。

 たしかに、土田の笑いの性質は、ケラの喜劇がもつ性質、もしくは笑いがもつ残酷さを醸し出すこととは違う。それはしんみりとかすかに慕情のような感情の誘発を誘う。

 最後はまったく趣向は違うが、那覇で毎年行われている、国際児童演劇フェスティバルである、「りっかりっか*フェスタ」から一作をあげたい。直截的な喜劇という括りではないが、それは見ようによってはユーモアあふれる、ときに不条理演劇のようにもとらえられる。いわば、喜劇と不条理、ひいてはだからこそあらわれるユーモアという演劇の本質を考えさせる。

 この作品は数年前に「りっかりっか*フェスタ」で上演されて、今回も日本のさまざまな劇場でツアーする。しかし、何度でも見る価値がある。『ア・マノ』というスペインの劇団エル・パティオ・テアトロの作品だ。

 それはいたってシンプルだ。粘度の土塊から始まり、それが指人形として擬人化されて赤ちゃんとなり、成長する。彼はアンティークショップに並ぶ人形となる。誰かに買われるべく努力を重ねるという、他愛のない話である。しかし、そのシンプルさは、演劇の本質について考えさせる。

 たとえば感情移入。ものに対して感情移入ができるというのは、人間の特権なのだろうか。たしかに人は、擬人化されたものだけでなくとも、特に幼少期は感情を多くのものに投影できる。毛布であったり、絵柄であったり、お気に入りのものを対象として会話をする幼児は多い。それは自身の投影に過ぎないと笑うこともできない。どのレベルであれ、感情移入という行為は、ものそれ自体に対しても起きる。その人間的な、あまりに人間的な感覚とはなにかがシンプルに考えさせられる。もちろん、教育的にも、ショーウィンドウで売れ残っていく人形が必死に売られようとする姿は、切なくもかわいらしい。それは商品の基本として、交換されない限り死に至る病として、無価値なものとなってしまう、残酷さも提示する。

 その深さは教条的ではなく、むしろ大人という年をとるに従って、当たり前となったことを異化する。むしろ、固定概念が覆される瞬間があるからこそ、良質な児童演劇はおもしろい。



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