「佐伯隆幸の演劇」 『テアトロ』 2017年4月号

「現代演劇の起源」とされたアンダーグラウンド演劇

 千田是也と佐伯隆幸の対談がある。「いま、演劇性とは」という題がつけられて、1974年の『新劇』誌上で掲載されたものだ。のちに『運動と主体 千田是也演劇対話集』下巻に収録された。そこには、一見すると全く噛み合わない二人の対話がある。

 新劇の巨人である千田は、当時すでに70歳になっている。かたや若い世代の潮流としてアンダーグラウンド演劇に深くかかわり、その理論構築を牽引した一人である佐伯の年齢は30代前半。前年に初めての評論集『異化する時間』を上梓したばかりだ。

 その対話自体は、具体的な舞台について事例のない抽象的なもので、話されるひとつひとつのテーマも常に横滑りしていく。今となっては実りのない対話とされてしまうかもしれない。ただ、全体として佐伯の企てようとしていることは、近代を批判することを通して新劇との差異化を図ることだ。さらに言えば、その乗り越えを目論んでいる。時間、表現、記号といった問題について、さらには近代が囲ったヒューマニズムなるものについて。千田も批判される要素が近代演劇の側にあることは認めている。新劇の状況が舞台の表象を含めて後退しているという認識はあるからだ。

 しかし、だからこそ、そこで佐伯に論じられる近代演劇なるものとは何なのかを問いかける。対話のための共通コードが成り立たなくとも、会話の糸口を紡ごうと試みている点では、千田は大人に映るだろう。差し出された手を拒絶しているのは佐伯の方だからだ。だが、千田は、アンダーグラウンド演劇という現象を理解の範疇に入れようとする。アンダーグラウンド演劇そのものに興味があるわけでも、ましてや共感などではない。新劇のふがいなさゆえにそのような状況が起こってしまっているのであって、それは近代演劇の可能性から遠ざかっている新劇の問題から起こったことに過ぎない。だから、自身の立ち位置を全く出ることなく、アンダーグラウンド演劇に面白いところもあることは認めつつも、理解しようという域を出ていない。

 それが、この対談に限らず、新劇とアンダーグラウンド演劇全体を覆ういらだちでもあったのだろう。理解、寛容、許容、それらのどの言葉をとっても内実は違う。だからその溝は、埋める必要もなかったのかもしれないが埋まらない。若者たちの理由なき怒りや叛乱としてしか、彼らの行動は見られていない。実際、千田がアンダーグラウンド演劇の舞台を観て、俳優たちの肉体の演技についての感想は、「あれはただの熱演」と評して技術がないことを対談で揶揄している。

 むろん、佐伯もそのように近代演劇の線上で理解されようとしていることを嫌っているから、ややもすると乱暴に、その理解との違いを示そうとする。現在形で進行している事態に対して、世代や感覚としてものわかりよく理解されてしまうような分析や腑分けは、歴史化へと繋がる。その歴史の進行という近代のもった時間そのものをいかに忌避するか。それは近代の延長ではない。時間論とまでは言えないが、ある一つの時間の見方として、円環化される天皇制という時間の流れがある。それは超えようとしても超えられないものという設定は、佐藤信の戯曲のモチーフにも繋がる。時間をテーマに、アンダーグラウンド演劇を論じる視点は、その後も佐伯の論でしばしば取り上げられる。

 時代ははるかに下るが、90年代に話したことや書いたことをまとめた『現代演劇の起源』は、独特な語りというか文体のため読みづらさは伴うが、すでに時間も経た事後ということもあって、それこそポストモダン思想をはじめ、日本における68年の思想を先駆けた津村喬などを援用して、アンダーグラウンド演劇なるものを総括しようとする。述べられること自体は、至極まっとうなことだ。論が成功しているかは問わないが、アンダーグラウンド演劇とは何であったのかを問うことと、フランス現代演劇への視野が往還している。そして、強いていうならば、近代の歴史という時間を離れて世界史の潮流の中で民衆の可能性を見いだそうとする。たとえ個別に福田善之、佐藤信や鈴木忠志などが論じられていても、大いなる枠組みとして、そこにアンダーグラウンド演劇を措定しようと試みている。

フランス現代演劇への視座

 アンダーグラウンド演劇にかかわった当事者でありながら、同時に研究的な分野として佐伯がフランス現代演劇の戯曲翻訳などを通して紹介者としてあったことは、なにを示しているのか。もちろん、それは数多いる海外の演劇の研究者や紹介者とはスタンスが違っている。やはり批評家という現場に介在する立場から、フランス現代演劇を媒介に語っていたように映る。翻訳というレベルで見れば、その仕事の大きさは二つに絞られる。

 太陽劇団とベルナール=マリ・コルテス。コルテス戯曲は共訳も含んで、合計で3冊出版された。その翻訳した作品は、上演という形態においてもときに佳作を生み出した。たとえば、2014年に佐藤信が演出した『森の直前の夜』は、まるでコルテスの膨大な台詞の飽和点に達した地点から、ことばの意味が摩耗されて浮き上がっていくようなさまを、笛田宇一郎の存在感ある身体をどこまでも薄くぺらぺらに変換させる作業を舞台上で行っていたように思えた。

 その重みを軽さへという言葉だけなら80年代演劇止まりだろうが、軽さをも通り越したとき、消えうるべき身体の瞬間がいたってシンプルな演出のなかにある。大枠では俳優の存在感が主張していたとしても、コルテスの言葉とは何かがスリリングな体験として観客に刻まれたともいうべき時間だった。

 しかし、ここではもう一つの太陽劇団を日本に紹介したことと、佐伯の80年代における身振りについて考えたい。それは黒テントの活動を離れていくころと重なる。むしろ、それが一つの成果を果たしたのではないか。80年代の著作を通読すると、目指す高さへと辿りつこうとする緊張感に溢れている。それらの本や論は、先ほど述べた時間、もっと言うならば民衆の時間から引き起こされる革命の時間という問題を、68年5月という具体的な数字にあてながら、フランス現代演劇の状況に仮託している。

 すでに、太陽劇団の戯曲『一七八九』は、72年に「現代世界演劇」のなかで翻訳している。そして『道化と革命 太陽劇団の日々』を76年に。民衆の革命というモチーフの大部分はここから来ているだろう。おそらく、黒テントの活動のイメージ、ひいてはアンダーグラウンド演劇そのものも後には重ね合わせていたのではないか。

 そして、80年代初頭に太陽劇団をはじめとしたフランス現代演劇を実際に観ながら、同時代的に書き残したものには圧倒される。68年を再評価するウォーラスティンの言辞を待つまでもなく、いままで世界史上で二度しか起こっていないと言う下からの革命、民衆の革命とはなにかを考えるための軌跡をなぞっているようだ。

 それら八〇年代の本としては、到達点のように映る『二〇世紀演劇の精神史−−−−収容所のチェーホフ』や、必ずしもフランスの現代演劇についてではないが、演劇を巡るエッセイ『最終演劇の誘惑』などがある。また、同じく80年代に共訳された実践と密接に結びついた論であるアウグスト・ボアールの『被抑圧者のための演劇』なども第三世界論への視座だ。

サルトルとハイナー・ミュラー

 『二〇世紀演劇の精神史』で書かれるハイナー・ミュラーについての記述は、おそらく日本への紹介としては早いものになるだろう。サルトルの影響をかつて圧倒的に受けながら、六八年というサルトルから離れていった運動と、その顛末としてのサルトルを想う葬儀のシーンからはじまる一章「死者たちの対話」は、その偉大なる存在としてのサルトルの葬儀を茶番として葬り去ろうとしても、できない残余のなかにある。

 そして、サルトルからミュラーへと唐突につなげられる。最初に舞台で観たときには、なんの感慨もわかなかったという『ハムレットマシーン』が、突如サルトルの死と共に、サルトルを読み解くための格子となってフラッシュバックする。いわば、ミュラーからサルトルへと、たとえ恣意的なイメージに過ぎなくとも、終わった歴史を描くかのようなテクストが、サルトルの世紀への弔鐘のように変わるのだ。

 『ハムレットマシーン』を死んだ男への追悼演説として見ることと、テクストが映す絶望と死が同時に、サルトルへの埋葬ともなる。それは研究ではむろんないが、批評としての冴えがある。また、『ユリイカ』の特集である「世界の演劇人は語る」(85年)では、ハイナー・ミュラーの一篇の訳出をはじめ、「ヨーロッパ演劇」なるものの廃墟へと近づく状況を解説したり、ラヴォータンを論じたり、八面六臂の活躍をしている。80年代という「運動の演劇」の退潮のなかで、言説としてはその状況のはるかな高みを目指していたのではないか。それは、ある面で日本の演劇を、現場からは離れつつあったとしても、68年という世界史的な潮流の帰結として、再びその同時代性のなかに入れ込もうとする努力だ。それは、80年代の浮かれた日本の演劇状況のなかで見れば、批評が築こうとした戦線であり、闘いであったのではないか。

 おそらく、佐伯隆幸への追悼は本誌『テアトロ』に限らず、相応しいさまざまな方がいろいろな媒体で書いたり、発言したりするだろう。わたしは年齢的に当然だがその生涯のわずか一部に接点をもっただけだ。はるかに遅れてきた世代として、晩年の10年ほど劇場をはじめとした演劇批評の現場、もしくは舞台が終わったあとによく議論をしたに過ぎない。だから追悼という形ではなく、このようなエッセイとして連載の一部として記した。そのような書き方こそが、批評の流儀のような気がしたからだ。


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