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映画「凪の島」のこと

※注意/この記事の後半で、映画の物語について具体的に触れています。

エンドロールで僕は作家・脚本家・俳優の室積光さんと連名で「ストーリー/脚本協力」とクレジットされてますが、映画「凪の島」については、企画当初から、長澤雅彦監督の脚本づくりに参加させていただきました。

具体的には、2020年の初め頃から、監督が明確にイメージしている主人公の少女「凪」の人物像と物語の核となるその家族のエピソードや設定を聞きながら、室積さんと共同で島の人々のエピソードやキャラクターを作り、さらに3人で膨らませていく…という作業をしました。

ミーティングで出たアイデアやエピソードをシナリオ形式のロングプロットにまとめる作業をさせていただき、最終的には監督がこれらを総合的にまとめて「脚本」として仕上げられました。

完成した映画を観ると、室積さんや僕によるキャラクターやエピソードはしっかりと活かしつつ、作品全体では、これまでも脚本作「はつ恋」などでハートフルで繊細さを発揮してこられた「長澤ワールド」が発揮されている脚本・作品になっている、と思いました。

「脚本」というのは不思議です。例えば連続ドラマであれば、ひとつの物語を複数の脚本家がお話ごとに分担して手がけることもあります。その場合、物語の展開やキャラクターを決め、脚本家同士が共有しているにも関わらず、各話によって脚本家の「個性」が滲み出て、同じドラマなのに各話によって「味わい」が違う、という場合があります。

その「味わい」の違いは、脚本家が脚本の中で物語の流れをどう「シーン設定」するかによって現れる、とあるシナリオ教室の指導者の方が仰っていて、今回「凪の島」を経験し、僕はそこを如実に感じました。

長澤監督ご自身は周南「絆」映画祭でのトークショーで「大橋さんのエピソードも、室積さんのエピソードも、僕では絶対発想しない話」と仰ってましたが、3人の個性の違いを活かしながら、最後は監督がご自身の感性に落とし込んだからこその「凪の島」だったのだろうと個人的には思います。

具体的には、凪自身やその家族の設定は監督がずいぶん前から構想されていて、僕は主に「笑らじい」こと山村徳男や漁師の浩平、担任教師の河野ミズキを中心としたエピソードを名前等も含めて担当しました。凪の同級生である雷太と祖父、母を巡る冒険のエピソードは室積さんの担当です。

僕自身、今回は現場に参加するつもりはなかったのですが、クランク・インの10日前に長澤監督から「お茶しようよ」と電話があり、いつものマックでいつもの映画の楽しいお話で盛り上がったところで「現場手伝って」の一言で参加することになりました(笑)

現場では美術パートをお手伝いさせてもらいましたが、主に学校の教室や凪ちゃんとママ・真央のお部屋の飾り込み、諸々小道具の調達などなど、撮影中は連日朝から晩までずーっと走り回ってました。

長澤雅彦監督とは、生まれ年は1年違いますが、誕生日は2カ月しか変わらず、同学年になります。出会ったのは今から12年前。長澤監督が東京から僕の母校である徳山大学(現・周南公立大学)の教授に就任されて、当時の学長から紹介され、その日のうち仲良くなって飲んで以来のお付き合いです。

長澤監督とはただの「飲み友達」だったはずなのですが、僕が実行委員長をやってる映画祭で監督による地元の高校生たちの短編映画を製作したことがご縁となり、僕が住んでいる山口県下松市(くだまつし)で映画を作る機運が高まったこともあって、監督をお招きしての下松市での「映画」づくりが始まりました。

当時の下松市長さんで、昨年亡くなられた井川成正さんは映画づくりに理解があって「観光地じゃなくてもどこを撮ってもいいから、下松の人の美しい《心》を撮ってほしい」と言われた方です。その想いを受け、今や大人気脚本家・監督となった足立紳さんの脚本、清塚信也さん音楽で長澤監督が地元の人たちと製作した映画が「恋」という作品です。

この作品は今も配信や各地の映画祭上映などで多くの方に愛されていますが、僕にとっても初の「プロデューサー」を務めた作品でした。以来、長澤監督による「下松映画」の製作は続き、今回の「凪の島」が何と5作品目となります。これまでも地元公開後にじわじわと上映館が広がったり映画祭等で上映される、などはありましたが、全国の映画館での一斉公開作は初めてなので、まさに集大成的な作品とも言えるでしょう。

通常「地方発」の映画と言ってもスタッフ・キャストは東京からやってくる、というパターンがほとんどですが、長澤監督の映画づくりは、メインキャストは東京の俳優さんであったとしても、キャストやスタッフの多くが地元在住であり、人材を掘り起こし、育成しながら製作していることに特徴があると思います。

何より監督自身もこの地に住んでるので、まさに「地元発」。その土地に根ざしながら、今回「凪の島」のメイン製作会社であるKビジョンのスタッフをはじめとして、撮影、美術から俳優に至るまで、地元の人材を育てながら、一作ごとに「力」をつけていったと思います。

すごいと思うのが、映画なんかやったことがない人たちに、長澤監督は「できるよね」と重要な役割を与えること、なのですが、映画の経験は無くとも、皆さん何がしかの一流のクリエイターやエキスパートであり、その力量を見抜く力や人材の活かし方は大したものです。

かく言う僕は、クリエイターでもエキスパートでも無く、少々映画の制作スタッフの経験はあったものの、企画から完成、公開までガッツリ関わることは未経験だったのに、監督の「できるよね」の一言でプロデューサーをやらされて(笑)4作目の「くだまつの三姉妹」では「脚本書けるよね」と!

これまで記者やライターとしていろいろ書いてきましたが、脚本に関しては、映画祭の脚本賞の一次審査をした経験はあったけど、書いたこと無い(汗)。何より映画マニアとして「脚本」の重要さは誰よりわかっているので「俺でいいの?」という感じでしたが、結果、監督に厳しく手取り足取り腰取ってもらって(笑)何とか書き上げることができました。

その流れからの「凪の島」であり、それで僕も企画当初からお話づくりに参加してきたのです。

そして、長澤監督に僕が個人的に感謝したいことがあります。それは、僕が担当したエピソードのひとつに実は非常に個人的な「想い」を込めたものがあって、そこがちゃんと「映画」に盛り込まれていることです。

うちの家族は、僕以外、父も母も兄も、全員が本土からかなり離れた離島・萩市見島で生まれ育ちました。まあいろいろあって親父は島を離れて本土に出てきたのですが、実は僕には「広子」という姉ちゃんがいました。

「いました」と言うのは、広子姉ちゃんは小学校4年生だった9歳の時に亡くなりました。現在だったら絶対に死なない突然の「病気」でした。正直を言うと、このとき医者の判断さえきちんとしていれば、当時であっても死ぬことはなかったかも、とのことでした。

僕の親父は悔しくて悔しくて、自分のことを責めながら、一晩中姉ちゃんの遺体を抱きしめて泣き明かしたらしいですが、その4年後に本土で生まれたのが僕です。母に聞くと、親父は家にあった姉ちゃんの写真を全部焼き、母が必死に懇願してたった1枚だけ残した写真は親父が「見ると思い出して辛いから、二度と見たくない」と親戚に預けたらしいのです。

その後、僕が小学生になった頃、ようやく父親の気持ちが少し晴れたのか、親戚から写真を返してもらいました。当時、初めて見る姉ちゃんの顔は、とても優しそうで可愛かったのを覚えています。

親父は大工職人で、姉ちゃんのこともあったからか、普段はなかなか「笑わない」頑固じじいでした。ですが、晩年は笑顔も増えて人のために尽くすボランティア活動に頑張っていました。5年前に亡くなりましたが、今はあの世で先に逝った広子姉ちゃん、母ちゃんと「笑って」楽しく暮らしている、と信じています。

今回、離島の話であることから、主人公を取り巻く人物とエピソードをいくつか作るにあたって、もちろんそのままではありませんが、親父と姉ちゃんの話を元にしながら、形にしていきました。

その辺りが完成した映画にも活かさせていることが感謝です。映画には「山村徳男」という人物が出てきますが、僕の父も「徳男」さんなので、僕が映画に関わることをとても喜んでくれてた親父は、広子姉ちゃんとともに喜んでくれてることでしょう。

親父は死ぬまで「あの時いい医者に見せていれば」と悔やんでいましたが、映画で「徳男」さんが「いい医者」の佳子先生と「広子」への想いを共有できたことが、天国の親父の救いになればいいな、と思ってます。

ということで、そんなこんながあって映画「凪の島」は公開されました。

この映画に出てくる人たちはみんな何がしかの「痛み」を抱えていますし、決して劇中でその「痛み」も完全解決する訳ではありませんが、誰かの支えで向き合える大切さはしっかりと描かれていると思います。

是非皆さんにとって、大切な一本となることを願います。




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