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歌うたいのバラッドが、歌の本質を突きすぎているという話。

嗚呼歌うことは 難しいことじゃない 
ただ声に身をまかせ 頭の中をからっぽにするだけ

歌うたいのバラッド / 斎藤和義

歌のレッスンをしていると、大きな自己矛盾というか、ジレンマを感じることがある。それはまさにここで歌われている歌の本質にかかわることで、

何かを伝えれば、それを意識しながら歌うことになるし、それがうまくできなければそこをずっと心の中で引きずることになる。

つまり、習えば習うほど頭の中をからっぽになんてできない!!

自分はあまり人の指導を受けずに自分なりに試行錯誤した時間が長かったので、そんな意味ではむしろ良かったところもあるかもしれないと思う。(でもやっぱりボイトレは早めにしといてもよかったなと思う。)

ここで改めて感じるのは、斎藤和義さんのこの名曲のこの歌詞。ひょっとしたら本人は何気なく出てきて書いたことかもしれないけれども、とても大切な部分を最近改めて発見した。それは

"ただ声に身をまかせ"

という部分。これはどういうことかというと、良い歌手、良いミュージシャンというのは、ほぼ間違いなく思考ではなく肉体的な感覚、肉体的な快感を頼りに音を発している。

表面的に、このサウンドはあのミュージシャンのあの音と同じだから良い。みたいな判断をしている人は、大体その本質を表現できていないことが多くて、本当の意味での良いミュージシャンは必ず自分なりの気持ちいい、という感覚を頼りに演奏していると思う。

そもそもそうでなければ自信をもって表現などできないし、永遠に誰かの真似を続けるしかない。そうすると永遠に本物になれないので永遠に自信がない、というループ。

そんな意味では、肉体の感覚こそが、アーティストを導いてくれるともいえるかもしれない。

そんなことを踏まえて、

"ただ声に身をまかせ"

を読んでみると、なんとなく理解できるのだけど、もう一つ大切なことがある。これは"歌に身をまかせ"ではなく"声に身をまかせ"なのだ。

歌になる以前の声、とでもいうべきか。この辺はボイトレ的にも面白いところではあるのだけど、

そもそも声というのは、サルの時代から、生まれた時の鳴き声、雄叫び、笑い、求愛の声?みたいなものがあっただろうと想像できるのだけど

何かしらの感情を伴って自然に出るものから、言語的な意味を持つサインの送りあいに発展していっただろうと思う。

歌はそれらのすべてを飲み込んでさらにリズムやハーモニーまで複雑に絡み合ったものに発展したけれど、もっとも根源にあるのはそういった原初からもっている声であって

それはいきなり歌ではないし、いきなり言葉でもない。まだ何にもならないけど発せられずにはいられずに出てくる"声"。

それこそが根本にある歌のモチーフともいえるべき情動であって、そこに身をゆだねて頭の中を空っぽにするだけだと。

綺麗な発声を目指すというのもある意味、肉体の感覚優先ということではあるけれども、それはそういう"情動のモチーフ"を含んでいない。それはある意味で"喉の快感に酔っている"状態ともいえ、うまいけど響かない、心地よいけど残らない、となりがちなのかもしれない。

逆に、下手だけど響く、発声なんて意識したことがないけど刺さる、歌もあって、それはその意味での"声”から生まれているものなのかもしれない。

今、その瞬間に、その人間が発せずにはいられない"声"をもっていて、それが同じように同じ時を生きるだれかの”声”であるかどうか。

そういったことも、歌が誰かの心に残っていくか、そうでないかの瀬戸際なのかもしれない。

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