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時計の話

その昔、大学生になって名古屋で一人暮らしを始めました。実際は名古屋市から少し出た尾張旭市にあるアパートで暮らし始めたのです。通う大学からバイクで10分程度だったと覚えています。自転車だと30分くらいだったのかな。そして名古屋の地下鉄の終点、藤が丘駅までも同じくらいだったはず。

なんの機会だったかは覚えていないけれど、東京の自由が丘で倉敷時代の友人、戸川君に会いました。彼は東京の大学に通っていたのです。なぜ自由が丘だったのかは覚えていませんが、一緒にラーメン屋さんに入ったのです。これは確かです。そしたらお店の中にある壁に取り付けてあるテレビで「ちびまる子ちゃん」の放送が始まりました。おいらはまだちびまる子ちゃんを知りませんでした。すると、戸川君が「ああ、これおもしれえんよなあ」と、喜んでいます。そうか、ちびまる子は面白いのだと初めて知りました。主題歌もキャッチャーな曲です。子供番組の主題歌なのにコーラスがファンキーです。こうやって思い出してみると、ちびまる子の始まる時間では夕食には少し早そうですね。ところで、この再会の前に、やっぱり東京へ出かけたときに戸川君のアパートに泊めてもらったことがあります。その時ワンルームの小さなアパートに、たまたま上京していた戸川君のお母さんと妹も一緒に寝ることになっていて、何だかすごいじゃまになりそうなものだけれど、とてもよくしてもらって一緒に小さいテーブルを囲んで小さいテレビを見ていたら、松田聖子がオリジナル製品を売るフローレス聖子というお店がオープンするので、当日(ニュースの翌日)は本人がお店に来るとニュースで流れていました。お店の前にはファンが徹夜で並んでいると言っています。そこで「これだ」と、戸川君とお母さんに挨拶をして、そのお店のオープンのための行列に並ぶことにしました。小さなアパートに家族が来ている友人宅で一緒に雑魚寝するのも迷惑な気がしたのです。そうして実際に行列に並んで夜を明かしたんですね一人で。近くに並んでいる人たちはみんな複数の友人と来ている女の子達で、話を聞いていると、「どこから来たんですか?」
「あ、名古屋からです。」
「わあ、遠いところですね。でも名古屋なら街ですよね。」
「いえいえ、全然遊ぶところがないです。」
「ええ、そうなんですか?」
なんて会話です。ちょうどそれから名古屋に住む予定だったおいらは耳をダンボのようにしていましたが、実際に住み始めると遊ぶところはいくらでもあったので、心配するようなことはなかったようです。この後朝になり、無事開店したお店に人が入場制限しながら順番に入り、おいらも順番がまわってきて入店しました。そうしたら、ホントにそのに松田聖子さんがいるので、ドキドキしながらお店の中を巡りつつ、ちらちら聖子さんのことを見ていたけれど、何しろ宿泊費を浮かすために友人宅へお邪魔してるくらいなのであまり無駄使いする金がないですが、奮発して折り畳み傘を買って、レジ脇にいる聖子さんに握手してもらいました。当時はアイドルの握手会などはない時代で、こうして芸能人と一般の人が接する機会なんか全くなかったはずで、割と画期的なことだったんですね。そうして、傘を握りしめて戸川君の部屋に戻り、泊めてもらったのか、そのまま東京を後にしたのか記憶がないけれど、その日以来戸川君には数年間フローレス小野と呼ばれることになりました。

さて、ちびまる子が面白いと学習して名古屋に帰り、ある晩バイト帰りに地下鉄藤が丘の行きつけのBARに行くと、ハードロックギタリストの店長や常連のお客さんがちびまる子の主題歌の話題で盛り上がっているではありませんか。どういうことかとたずねると、

「あれ、ヒロシ君知らないの?あのコーラスは房之介なんだよ。」
「ええええええええええええええ!」

そう、近藤房之介さんは東京進出するまでは名古屋で活動し、その期間は藤が丘にお店を持っていたのです。なので藤が丘近辺には名古屋時代の房之介さんを知っている人が結構いたのです。そして、近藤房之介さんは日本屈指のブルース系ミュージシャンだったので、おいらもファンだったのです。たしかBBクイーンズで売れる前に(当時は既に東京がベースだったはずですが)名古屋のムッシュかまやつローカル深夜番組でレギュラー出演して、毎週ゲストとのライヴに参加していた公開放送を名古屋のアポロシアターへ観に行き、放送後に房之介さんに挨拶してちょっとだけ話をしました。

当時おいらのバイトしていたキャラバンサライのマスターだったジミーさんという(ホントは節夫さんなんですが)人が、藤が丘の房之介さんがやっていたお店の後に入った縁で、ジミーさんも何度が房之介さんと会ったり一緒にライヴしたりしてたそうなんですね。特に親しかったわけではないようでしたが。その後その藤が丘のお店からキャラバンサライに移り(おいらはそこでバイトし)、その藤が丘のお店は当時稲垣さんという人が経営していました。ジミーさんは現在サントゥール演奏者というか、日本屈指のインド音楽演奏者という偉い人になっているので、この人との関係の話もまた別でまとめて書くかもしれません。飲食のお店の経営者だった時代のジミーさんにとってはおいらが一番弟子のような関係でもあったのです。おいらは学生のバイトのはずなんだけれど、思い起こせばその辺りのお店関連人脈の人達とすごく仲良くしてかわいがってもらっていたようです。もちろん全て人徳だと思われます。そもそも倉敷から名古屋に1人で出てきて地元の友人は皆無で、大学のクラスメイトだけが最初の友人達だったおいらが、大学2年生の頃には大学外の友人の方が多く、昼のバイトでアパレルのグラフィックの仕事をすれば社長が「小野君はバイトでいつも出社するのは大変でしょう、コピー機を小野君の下宿にレンタルしてあげるから、会社に来るのは打ち合わせと納品の時だけでいいよ」と、コンビニにあるのよりも立派な最新式キャノンのコピー機をレンタルしてくれたりしたのも、ちょっとフツーではあり得ない話なので、多分人徳以上に特殊なオーラが出ていたものと思われます。キャラバンサライのバイトは、大学のクラスメイトが「ねえねえ、小野君のためにあるようなお店があるんだけど、バイトしない?」と誘ってくれたのです。その竹村君は逆に面白そうとバイト始めたけれど、どこか合わなかったようで割とすぐ辞めてしまいました。

話をちびまる子ちゃんに戻して、当時アニメの人気というだけでなく、主題歌もヒットして子供から大人まで多くのファンがいたためキャラクター製品も多く売られていたようです。おいらは上記のようにアニメや主題歌で興味を持ったのですが、マンガは読まなかったけれど、原作者のさくらももこさんのエッセイ本を読むようになりました。これがとにかく面白い。マンガではないけれど、本の表紙に書かれたイラストもとてもいい感じ。そうこうしているうちに、ちびまる子製品も特にコレクションしてたわけではありませんが、気に入ったモノは買ってたようです。そういうちびまる子のマイブーム期に買ったものに壁掛け時計があります。

この壁掛け時計をミラノに住むようになってから、一時帰国時にミラノに持ってきました。元々振り子が付いていたのですが、振り子は動かなくなったので処分しました。でもメイドインジャパンのムーヴメントは問題なく、定期的に電池を入れ替えて現在も動いています。一度電池を入れ替えるときに落としてしまい、少しフレームが欠けていますが、まだ我が家の壁にかかって30年以上時を知らせてくれます。

だからどうしたということはないのですが、この時計を見て時間の確認をするたびに、上記のような昔話の思い出が文字盤の奥にちらちらするのです。だからなかなか捨てられないですよね。こうして年寄りの所持品はだんだんに増えて行くようです。

お終い。

Peace & Love


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