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わたしの視点: 河口悠介(被服支廠ガイド)

昨年12月の解体報道の後、被服支廠に一人立って、訪れた人々にボランティアでガイドをしている青年がいます。今は、コロナウイルスの影響でガイドを休止していますが、活動を始めた理由、実際に多くの人を案内してみて感じたこと、そして平和への想いを書いて頂いたので、ぜひご一読下さい。

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平和活動に奮闘する理由

広島県原爆被害者団体協議会(佐久間理事長)平和学習講師、カクワカ広島のメンバーの河口悠介です。僕が平和活動を始めたきっかけは、昨年3月に卒業した大学にあります。

僕が卒業した大学は、広島市内にあるエリザベト音楽大学です。専攻はコントラバスでしたが、コントラバスとは別に、作曲も副科として勉強していました。4年間にわたって音楽を学んだこの大学は、創立に原爆が深く関わっています。実際、エリザベト音楽大学のホームページ内には、次のように書かれています。

ベルギー人のイエズス会士、エルネスト・ゴーセンス師は、原子爆弾による惨禍の中で、青少年に希望と励ましを、そして広島に文化の灯火をと、一つの小さな音楽教室を始めました。そこにはたちまち100人あまりが集まりました。広島での音楽教育の必要性を感じた神父は、翌1948年、本格的な音楽学校を開設します。本学の前身、「広島音楽学校」の誕生です。その後、ベルギー国故エリザベト王太后を後援者としてその御名を賜り、短期大学、4年制大学、専攻科、大学院修士課程を有する大学へと発展、1993年には私立音楽大学初の博士後期課程を設置しました。

設立当初から現在まで、カトリシズムの精神を指導原理とし、音楽の専門教育のみならず、西洋音楽の源泉であるグレゴリオ聖歌などの宗教音楽をも重視しています。

音楽教育を通じた人格完成・全人教育をめざし、広く知識を授け、良識ある音楽家を育成することが、本学の大きな特徴です。(以上、原文ママ)

2017年8月には、創立70周年記念事業プレイベントとして、ドイツ・ベルリンで開催されている音楽祭『Young Euro Classic』にて、エリザベト音楽大学交響楽団コントラバス首席奏者として演奏させていただきました。恒久平和の願いを込めて、また、一刻も早く核兵器がこの世の中からなくなることを祈って演奏しました。

また、エリザベト音楽大学の前身であるエリザベト音楽短期大学の第1期生に、作曲家の冬木透(本名・蒔田尚昊)先生がいらっしゃいます。国民的ヒーロー『ウルトラセブン』の主題歌を含む音楽全般を作曲されました。昨年3月、エリザベト音楽大学創立70周年を記念し、冬木透先生作曲の『交響詩《ウルトラセブン》』を作曲者ご本人の目の前でオーケストラの一員として演奏させていただきました。

創立70周年お目出とうございます。短期大学一期生の私は、母校発展の目覚ましさを東京の空の一角から望んでおりましたが、その都度、懐かしさに加えて自慢の思いが浮かんできたものでした。それは、70年前には望むべくも無かった立派なホールをはじめとする施設の数々のせいであります。

ところでこの度は、何と!私自身がお招きを受けて、この立派なホールで自分の書いた曲を聴くことになったのです。しかもエリザベトの血を分けた兄妹の皆さんの演奏で!

これは夢のようなことです。

70年前、初代の学長ゴーセンス師は『音楽は祈りです』、と教えてくださいました。

今日皆さんが演奏して下さる『ウルトラセブン』も、宇宙の戦士ではなく、平和を祈る使徒なのです。(以上、原文ママ)

これは、そのときのプログラムノートに記載された作曲者ご本人の言葉です。僕は、エリザベト音楽大学第65期卒業生、冬木透先生の母校の卒業生であることを誇りに思っています。

また、僕は1996年に生まれました。偶然にもこの年は、原爆ドームが世界遺産に登録された年でもあります。いろんな偶然が重なって生まれたこれらの縁を心に留め、音楽で平和を伝えることが僕の使命だと感じています。

被服支廠解体問題は危機的状況の証

9月から平和学習講師として活動を始めるまで存在すら知らなかったものの1つに旧広島陸軍被服支廠があります。昨年12月に出た「爆心地に最も近い(もっとも北側にある)1棟目(旧13番庫)のみを残し、残りの2棟を解体する」という方針。僕は、この方針を知った時、広島人として恥ずかしいと思わないのか、とても不思議に思いました。それは、とある報道番組内でのインタビューの様子を見ていると、被団協に入る前の僕のように被服支廠という建物の存在すら知らない人があまりにも多すぎて、特に若者に関しては「別にどうでもいい」という意見がとても多かったからです。

 僕は、佐賀県有田町出身です。有田町内の小学校では、郷土学習の一環として児童が思い思いの焼き物の作品を作る授業やろくろ体験なども行っています。1年次から少しずつ有田焼の歴史を学び、陶磁器の種類についても理解を深めます。これは、400年以上もの歴史を歩んできた貴重な文化として、後世に伝え残していかなければならないものだからです。1616年、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって日本に連れてこられた朝鮮人陶工・李参平(り・さんぺい/イ・サムピョン)らによって有田の泉山という場所で磁器の原料となる陶石が発見され、磁器の焼成に成功した。それが400年以上もたった今でも大切に守り継がれている。僕が通っていた小学校では、学校を夢の詰まった窯元にたとえ、総合的な学習の時間を「夢がま」と呼び、このような内容を6年間学んできました。

 広島ではどうでしょうか。軍都・廣島としての歴史、日清戦争中に一時的に首都が広島に移ったこと、いい意味でも悪い意味でも広島の近代化をずっと支え続けてきた兵器補給廠・被服支廠・糧秣支廠や国鉄宇品線などの軍事施設、小学校のころから深く学んでいるのでしょうか。被服支廠という建物について、「知名度がない」ということをよく聞きますが、「知名度がない」のではありません。紛れもなく、これは「忘れ去られている」のです。

 解体する理由の一つに、「老朽化による倒壊の恐れがある」というのがあります。僕の個人的な意見ですが、そう簡単には倒壊しないのではないかと思っています。旧広島陸軍被服支廠は、名前の通り元々は陸軍の施設です。軍の施設ですから、爆撃にも耐え、そう簡単に壊れないような構造になっているはずです。原爆の猛烈な爆風にも耐え、2001年の芸予地震にも耐えている要因も、そこにあるのではないでしょうか。

1990年代前半には103件(これは当時の登録数であり、この103件とは別にのちの調査で新たに登録されたものもあります。)あった被爆建物ですが、2015年までにそのうちの17件が取り壊されており、現存する被爆建物の登録数は原爆ドームを含めて85件(平成30年2月1日現在)です。その大部分が被服支廠のように長年放置され続け、忘れ去られているのが現状です。

平和のイマジネーション

 土日祝日を中心に、予定のない日はできるだけ被服支廠に行き、ボランティアで案内をさせていただいています。「今までそんなこと知らずに生きてた。ここで知ることができてよかった」と感じてくださる方もいらっしゃいますが、その逆のパターンもあります。よく言われる言葉のうち、1つ目は「自分はそんなの興味ないから」。「興味がない」という言葉で案内を拒否されるのです。自分が住んでいる町についてなにも興味を示さないのはどうなのでしょうか。2つ目は「知ったかぶり」「にわか勉強」といった言葉。「何も知らない若僧が知ったかぶって何話してんだ」というようなことを言うためだけにわざわざ来る人もいます。ひどいときは、「広島人でもないくせに原爆のこととか広島の歴史とか偉そうにしゃべるな」などと怒られることも。

 被爆者の方にも、しばしばひどいことを言われることがあります。「実際はこんなに長いとは思わなかった」ということは被服支廠を初めて目の当たりにした方からよく聞かれる感想です。しかし、その言葉の後に「建物としては全部一緒なんだから1棟あるだけで十分だろ」「こんな無駄にでかい建物、4棟目まで歩く気もならん」「こんなところにお金かける余裕があるなら、黒い雨を浴びてても被爆者手帳をもらえない人たちのために使えよ」というような意見が続くこともよくあります。

僕が平和記念公園の碑めぐりをするときに意識していることは、「想像すること」です。

「今は緑豊かな公園となっていますが、元から公園だったのではありません。今平和記念公園になっている中島地区は、当時約1300世帯、約4400人が暮らす、市内有数の繁華街でした。たくさんの笑顔が、夢が、希望があったのです。1945年8月6日午前8時15分、一瞬のうちに、街も住民もありとあらゆるものすべてが灰となりました。この瞬間、皆さんが今立っているこの場所は、地獄と化したのです。」

被服支廠の案内をするときも、臨時の救護所となった倉庫の中の様子を想像させるようにしています。

僕が皆さんに訴えていること、それは、「平和のイマジネーションを持つ」ということです。それが、戦争がどれだけ非人道的なものなのか、核兵器がどれだけ非人道的なものなのかということを考えるきっかけになります。人間は、大なり小なり同じ過ちを繰り返す。だからこそ、その度に想像し、考えることで学び、過ちを繰り返さないよう努力するのです。

平和学習の場は、平和記念公園だけではありません。広島に存在する85件の被爆建物すべてが平和学習の場です。「平和文化都市」を掲げている広島が、そのための学びの場を簡単に手放していいのでしょうか。

長辺が94mもある巨大な建物が4棟も並んでいる。4棟も並んでいるからこそ、想像できることもあります。1回壊してしまうと、もう元に戻すことはできません。最悪の場合、元々の大きさを想像することすらできなくなります。ただでさえ、元々17万㎡あった敷地の約9割を高校2校とテレビ局を建てるために壊しているわけです。広島は「平和文化都市」を掲げているからこそ、今一度平和と真摯に向き合い、世界恒久平和のために何ができるのか、考えるべきではないでしょうか。


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