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【ひ】 飛露喜 特別純米無濾過生原酒

僕はお酒が好きで、ひどい風邪をひいてしまったとか入院したとかそういうとき以外は晩酌を欠かしたことがない。

基本的にはビールでも日本酒でも焼酎でもウィスキーでもウォッカでもジンでもなんでも好き嫌いなく飲むけれど、一番好きなのは日本酒である。

しかし、20代半ばまで日本酒を一切口にすることが出来なかった。

高校生の時に友達が日本酒の一升瓶を持ってきて、それをみんなで飲んだときに、頭が痛くなって天井がぐるぐると回っているような感覚に陥ってずいぶん吐いてしまったことがある。もう銘柄も覚えていないけれど、30年以上も前の話なので、今みたいに美味しい地酒がたくさん買える時代ではなかったし、恐らく当時の二級酒みたいなものだったんだと思う。

それ以来日本酒を避け続けて、主にビールとバーボンを飲んでいた。

30年ぐらい前っていうのは焼酎も今みたいに種類が豊富ではなくて、酒屋で売っているのは「純」とか「TRIANGLE」などの色んなものが混ぜられた甲類焼酎と呼ばれる蒸留酒だった。美味しい芋焼酎とか麦焼酎などが首都圏で味わえる時代ではなかったので、こういう混ぜもの焼酎をレモンサワーとかカルピスサワーとかにして飲んでいたんだと思う。

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レモンサワーなどは大学のテニスサークルのチャラチャラした連中が飲むような腑抜けた酒だと当時は思っていたし、僕はバンドをやっていたハードロッカーだったので、ビールやバーボンを飲んでいたというわけだ。

酒がそこそこ飲めたので、社会人になったときには先輩たちからよく誘われて酒を奢ってもらった。
日本酒が不得意だということを伝えて高校生の時の思い出を話したら「よし、俺がその日本酒アレルギーを治してやる」という先輩がいて、居酒屋で日本酒を片っ端から飲ませてもらったことがある。

「吉野川」や「上善如水」など当時は割と一般的に飲食店に並んでいた日本酒を飲ませてもらったところ、明らかに高校生のときに飲んだ日本酒とは違うなという印象を持つことは出来て、それ以来酒席で日本酒を断るということはなくなったけれど、このときはまだ自分から進んで日本酒を注文するというまでにはならなかった。

20代の後半に、飛露喜との出会いは訪れた。

会社の同僚で山形県出身の同じ歳ぐらいの里香ちゃんという女性がいて、この人がお酒が好きでよくいっしょに飲みに行っていた。酒田市という海のそばで生まれ育った彼女は美味しい魚料理を出す居酒屋をよく知っていたし、酒田市は酒処としても有名なので日本酒もよく飲んでいた。
レモンサワーやカルピスサワーを鼻で笑うところも、記憶を飛ばすほどのハードドリンカーなところも僕と同じで、この人とお酒を飲むのは大好きだった。

いまはもう閉店してしまったが、東京都町田市に「きよかわ」という地酒と魚料理の美味しい居酒屋があって、彼女とよく飲みに行っていた。当時はふたりともまだ独身で若かったのでお金があんまりないから、日本酒も比較的安いものを飲んでいたし、いいちこなどの焼酎をボトルで入れて、カワハギの刺し身に肝醤油などを相手に酒を飲んでいた。20代のくせに。

そこの大将に「これ飲んでみなよ」と言われて注文したのが「飛露喜特別純米無濾過生原酒」だった。当時はまだ市場に流通していない地酒だったが、町田にはあった。その理由は後述します。

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この出会いは強烈だった。言葉で表現すると安っぽくなる気もするし、そこまでの表現力もないのでやめておくけれど、とにかく今まで飲んだことのある日本酒とは全く別モノで、あまりの美味しさに里香ちゃんと目を丸くしたのを覚えている。

出会いというのは面白いもので、そのときの環境にとても左右されるものなんだと思う。

それまで日本酒があまり好きではなかったことだったり、よく行っていたお店の大将に勧められたこと、里香ちゃんとふたりで飲んでいたことなども、この出会いを強烈にした理由なんだと思う。
お酒が好きなふたりが小さな居酒屋で見たこともないものすごい日本酒を発見したっていう高揚感みたいなものがあったのも大きな理由のひとつだし、もし忘年会みたいな大宴会で、会社の先輩なんかに勧められて同じお酒に出会ったとしても、そこまでの感動は味わえなかったんじゃないかと思う。

日本酒はあまり詳しくないという方のために簡単に説明すると、この飛露喜は福島県の廣木酒造が醸すお酒で、今では入手が極めて難しいお酒になってしまっていて、無濾過生原酒の定価は一升瓶で2,800円程度だが、ネット販売では1万円を超える値段で取引されている。

ここから僕の日本酒探求が始まった。

居酒屋では地酒はそれなりに値段が張るから、飲みに行ったらたくさん飲みたい派の僕にとってはコストがかかり過ぎてしまう。当時はネット販売などはないから、お酒を買うとしたら酒屋に行くしかなかったし、いろいろな種類の日本酒を試すには、家で飲むのが最も効率が良かった。

ここでもうひとつのラッキーが僕にはあった。通っていた大学のそばに「小山商店」という有名な地酒屋があったのを覚えていて、まずはそこを訪れていろいろなタイプのお酒を店主に聞きながら試すことが出来たのだ。

この「小山商店」は、人気があって入手が難しいような地酒でも絶対に値段を吊り上げなかった。「十四代」でも「而今」でも入荷したら必ず定価で販売をしていた。

店主の小山喜八さんは、日本酒がほとんど素人の僕に対しても丁寧にお勧めのお酒を教えてくれたし「これ試してみてよ」と言われたお酒が外れたことはなかった。
「飛露喜を初めて飲んで感動したんです!」みたいな話にも笑って「あれ美味しいでしょう!」みたいな対応をしてくれていたのだけれど、後から調べてみたらとんでもない事実が判明した。

飛露喜を世に広めたのは、他でもない小山喜八さんだったのだ。

以下ネット記事の引用である。

そのころ廣木酒造本店をテレビ局が取材した。「将来、子供たちに『お父さんは昔、こんな仕事をしていたんだよ』と話すのもいいかな」。そう思って受けた取材だった。小さな蔵元を切り盛りする姿は、ドキュメンタリー番組として放送された。
番組を、東京都多摩市の小山喜八さんが見ていた。広く知られた地酒専門店「小山商店」の社長だ。小山さんから、電話で励まされた。「うまい酒を造れ」。試しに造った酒を送った。「この味では、首都圏では勝負出来ない」。厳しい言葉が返ってきた。
当時、日本酒の世界では「十四代」が新風を巻き起こしていた。山形県村山市の高木酒造が造る芳純な酒。評判を聞きつけ、初めて口にした健司さんは、奥行きのある味に圧倒された。「こんなうまい酒は、おれには造れない」。悔しさが、逆にバネになった。
酒米の五百万石を大吟醸なみに削った。酒米を水につける時間をタイマーできっちり計った。可能な限りの投資をし、蔵の設備を新しく変えた。「喜びの露が飛ぶ」。そんな思いが込められた酒は、口に含めば、うまさが小宇宙のように広がる味に仕上がった。
「端麗辛口」で一世を風靡(ふうび)した新潟県の酒とは、明らかに異なる独自の風味。
こうして出来た「特別純米無ろ過生原酒・飛露喜」を小山さんに送った。小山さんからの返事は「100本もらおうか」。3日後、「またもらおうか」。相次ぐ注文にラベルを印刷に回す余裕はなく、母親の浩江さんが一枚一枚、「飛露喜」と筆で手書きした。
毎日書き続け、母親はけんしょう炎になった。

後から知ったのだが、小山商店は全国的にもかなり有名な地酒屋さんで、さらに店主の小山喜八さんはレジェンドだった。

東京都町田市にあった小さな居酒屋がいち早く飛露喜無濾過生原酒をお店に出したのも、仕入れが小山商店だったからということも後からわかった。

こういうラッキーな出会いが重なって、日本酒の奥深い世界を楽しむ人生を手に入れたのだけれど、僕はいまマレーシアに赴任していて、もうすぐ6年が経とうとしている。

今は世界中がこんな感じなので、簡単に帰国することも出来ないし、小山商店にも行けない。

次に日本に帰ることが出来るようになったら、小山商店で厳選日本酒を10本ぐらい買ってきて、利き酒大パーティーを開催してみんなでへべれけになるのが今の僕の夢である。

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