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この夏にアメリカ留学をする友人に向けて書いた手紙

2011年1月の寒い冬。震えが止まらない日曜日の朝。しかも雨が降っている。それなのに東京都豊洲にある都民会議室ではなにかしら面白い連中が集まってきた。なんだこいつらは。わたし以外は皆30代。だれがだれなのかほとんど知らなかった。ひとりを除いては。

ひとりというのは7年前に三菱商事品川オフィスで同じ部署でいっしょに仕事をしていた筒井鉄平という男だった。2008年にシカゴ大学のビジネススクールを卒業。帰国をして2011年にはMBA留学を後押しするSNSを立ち上げた。その企画を応援しようという連中が6人も集まったのである。わたしは応援というか観察をしてくれと筒井に頼まれたのだった。

集まった中のひとりに首藤繭子という人が来ていた。会議が終わった後にベローチェでコーヒーを飲んだ。コートを脱いで椅子にかけるやいなやなにげない繭子さんの一言に耳を傾けた。都内でエコノミストを読む会というのがある。そこに留学をしたい連中が集まっている。その人たちもMBAに行きたがるんじゃないの。そんなことだった。

わたしはスパイにでもなったつもりで2か月後に入会していた。はじめは、赤坂見付、大崎、渋谷と転々とした。しばらくして新橋の会議室に定着するようになった。朝8時というのから9時になった。11時までの2時間を使い3つの記事を議論した。なによりどっと疲れの出る会議後の11時。汐留シティセンターのランチが楽しかった。

あれから12年が経過した。海外留学、特に大学院への留学が減ってきている。そんな折、エコノミストを読む会で知り合った友人がニューヨークにある大学院に留学することになった。友人といってもわたしにとっては長男よりも3つ下。かなりの差がある。こんなに年が離れていて友人というのはやや変な気がする。自分の子供より年下なんだから。

今月の29日には東京新宿でお別れ会がある。わたしは行きたい気持ちは強かった。しかしどこか複雑な思いがあった。日頃から海外留学、特にアメリカへの留学へは警鐘を鳴らしてきている。いってはいけない。いくなら国内のグロービスか一ツ橋ICSの方がよい。

そういっている手前、手放しで祝福することができなかった。そのためお別れ会には欠席の返事をした。ただし10年という長い間いっしょに読書会を共にした人に何かできないか。このままお別れ会には欠席する。なにもいわずにというのも無愛想だ。そう思い祝辞を書いた。その手紙はすでに本人には送ってある。

ここでは本人の名前は伏せてある。本人の名前を書くのは意図していない。そしてなるべく多くの人が読んでも不快にはならないように気を使ったつもりである。けどそうできなかった部分もあろう。そうであったらしかたがない。そのため実際に送った手紙からはちょっと編集してある。でははじめよう。

欠席のためKへの祝辞を書いておきます。始めの頃、功績、祝辞といった内容です。読んだ人の解釈次第では毒づいた祝辞になるかもしれません。その意図はないことをはじめにお断りしておきます。

わたしはKがはじめてこの会に来た時のことを覚えている。2012年6月だった。サンダル履きで颯爽と現れて新橋にあるルノアール会議室にやってきた。こいつはなんてふざけたヤローなんだ。わたしにとってはそんな第一印象だった。

当時の新橋では早稲田のファイナンス学科の連中が議論をしていた。疑問がなくなるまでは徹底的に激しくやりあう。そういった状態が続いていた。緊張と対立の中、ひょっとしたらKは長くは続かないのではないか。川本裕子先生のゼミで鍛えられた百戦錬磨の連中とやりやえるのは少ない。あの容赦のない連中と対峙したら3ヶ月くらいで消えていなくなるのかもしれない。そんな予想は外れた。

しばらくしてKは22歳という若さで立ち上がってファシリテーションをした。わたしには信じられなかった。当時だれもやりたくはないと考えていたファシリテーションをやった。いまだにあの記録は破られていない。ディベターとしても意見を積極的に出していた。ポジションをとり躊躇なく意見をいった。あの若さで堂々とあの連中を前にして意見を言えることはありえない。当時はだまってばかりいるとタダ乗りとして容赦ない辛辣な批判をあびせられた。立ち上がってやるしかない。

一方、わたしはこんなことも考えていた。感心しない。この若さでここまでできてしまう。これは危険な前例になるのではないか。わたしは怪訝な顔つきになった。これはとんでもないヤローが来たな・・・。この予想は当たった。

結局、後から判明したことはこういうことだった。はじめのうちよく来ていた早稲田の連中は飲み屋の喧嘩好きだった。本能的に感情丸出しの喧嘩好きだった。そのためなにもしゃべらないメンバーにつらくあたった。その行為はいかにもハエをハエたたきで一撃するようなことをやっていた。しかし彼らが野心家であることは認めざるを得なかった。そんな連中が抜けると平穏になった。不思議なものでしばらく恐ろしいほど退屈な時が続いた。

西洋の教育を大学と大学院で受けてきたわたしにとってはうれしい驚きだった。そこでは対立する相手の意見を徹底的に叩く。ボクシングのような二項対立を実践する。大学卒業後の間もない社会人であるKができるのはめずらしかった。わたしはKに会うまでだれも知らなかった。その頃から大学で教えていて手を焼くのは学生にそこを理解してもらうことだった。

そして始まった当時、メンバーのだれもがなんのためにやっているのかわかっていなかった。手探り状態だった。ところがKはメンバーとして初めて、国際会議に出て議論するためにこの会はあると平気でいっていた。この会をはじめた慎泰俊(Taejun Shin、noteでTaejunで検索)はラジオの公開番組で「エコ会は議論に強くなるためにある」といっている。ダボス会議にいっていた彼は議論の得意な人の姿を見たという。

またメンバーとして初めて、会の表紙にあるイギリス議会の写真を貼った。そしてメンバーとして初めて、10年という歳月を経てG7広島サミットに参加した。知りうる中でも十分な功績としてあげられる。

10年はあっという間だった。祝辞らしいことにならない。わたしはKの論点設定が気に入っていた。おお、それで論点整理をやろうじゃないか。相手だろうが味方だろうが議論をしていて学びがあった。ディベートをするなら相手としても味方としてもどちらでもよかった。

Kのいく大学はハーバード大学、イェール大学、プリンストン大学と並ぶ名門の大学だ。がんばってきてほしい。ただMITにいる友人が嘆いていた。どうもアカデミアは傲慢になってきているという。

こういった手紙を書いた。これが祝辞になっているかどうか。わたしがなにかしらの送ることばとして懸命に考えた文章である。意図しない誤解を本人や友人に与えてしまったかもしれない。しかし面と向かって祝福できない状況にあってはこうすること以外にはなかった。

わたしにも経験がある。どんなに周りがどんなことを言おうが行きたいと考えているときには行くしかない。わたしの周りも親戚、同僚、友人と多くの人が反対した。それでもわたしは女房・長男をつれて留学した。正解だった。行かなければ後悔した。あのときいっておけばよかった。必ずそうなる。

アメリカの大学院に留学して帰国した人たちのほとんどが口をそろえていう。なんて素晴らしい教育なんだ。あれは現地にいって肌で感じてみないとわからない。いってよかった。変わった。自信がついた。間違いではなく本当のことである。

しかしわたしが留学後の30年間に味わった苦痛、苦難、そして失ったものは計り知れない。大きな金銭的損失が発生する。時間がかかる。それでも良くなるかもしれないし、悪くなるのかもしれない。同じことが起きるとは限らない。常々、留学には反対をし警鐘を鳴らしているにもかかわらず祝辞と称して手紙を書いた。