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無料イベントはためになるか

コロナによる物理的な制限で2年経過。この2年間でかなりの数のイベントが増えた。それらのほとんどがZoomを使ったオンラインイベント。参加するのにはほぼ無料。これだけ無料だと無料が参加条件という人もいよう。

さて、この無料というのは、ほんとうにためになるのか。

コロナ前には場所代と称して1回1,000円程度徴収していた。そのイベントもオンラインにしたことによって無料化。新しいイベントは無料でないと集客できない。でも主催者の好意によるもの。感謝に堪えません。ただ、Zoomであれば、40分以上続けると月2千円支払う必要がある。決して出費がないわけではない。

週末のイベントで、組織の外に人が集まるときに会社のアカウントを使うのは論外。もしグループで集めた資金でアカウントを作り、その資金を使って目的以外のイベントに流用するのも論外。するのなら許可をとっていればまだしも。

それより問題は、どうもこの無料イベント。ここでは週末を使ったややシリアスな関心事と定義しています。つまり、Serious Outside Interest。狂信的でなく、ガチに勝負をするようなこともない、組織の外で週末に参加する関心事。ほどほどの加減で参加できるイベント。1回3時間程度で準備、参加、振り返りができるもの。それ以上の時間を使わない。問題意識を高めず、自意識過剰とみられない、前のめりでなくても参加できる。内発的動機で続けれるもの。

一方、きわめて娯楽性ばかりが先行、頻発するおちゃらけた内容でないこと。それは退屈になってしまう。問題解決をするのに気が遠くなるものでないこと。勉強にはなるがためにはならない。

ためになっているのか。むしろその逆ではないのかというのを書いてみます。イベントの目的は二つ。学びとネットワーキング。効果があるのか。どうも怪しい。それは以下の三つのことによります。ここでは、2回目以降に説明をする要点を述べます。

要点

ひとつめは、イベントによくある読書会。そこには課題図書を読んでこないひとがいること。準備をしないで参加してくる。参加してもだまっているだけ。4人のサブ・グループで話をするとき。ファシリテーションをするひとがいる。ところがいつも同じ人がファシリテーションをしてしまい、おんぶにだっこの状態。他力本願。

これらは、タダ乗り、見物人、風の人。いつまでたったもそこから脱皮できない参加者がきて、その数がだんだんと増えていく。このタダ乗り問題がある。カメラをオンにしない。見る、聞くだけでは学びはない。そこは、運営者からカメラをオンにしてと依頼があろう。あくまでイベントは運営者がネットワーキングの受益者にならないといけない。

ふたつめは、運営側。この運営に必要以上の手間がかかってしまう。すると長くは続かない。そして運営にいるとしながら、イベントにほとんど参加してこない。名前だけをかしているという影の友情運営というのがある。これはどうなのか。そして案内にあるイベントの目的やグループのミッション(存在意義)なるものを掲げてはいるものの、実行していない。あるいは、ミッション自体が怪しいものもある。

運営をしていても、相当な時間と手間をかけないと学びとネットワーキングが達成されない。

そして三つ目に広告媒体。媒体には、facebook, twitter, Peatix, Meetupなどが使われる。特にfacebookは気軽にイベントを作れることもあり、はじめやすく、続けやすい。ところがこのfacebookには、ほとんどが娯楽性の高いイベントが表示され、教育性のあるイベントとの区別がつきにくい。

facebookは、すでに会社としてMeta社に社名変更をしている。会社の方針としては、(1)動画配信に主軸を移し、TikTokやYouTubeに近いものにしていく。そうしてユーザー、投稿者の時間を使わせる。現在の平均35分という時間を延ばす。それにより、広告ビジネスを拡大する。(2)ショッピングビジネスに参入。Amazonのようなことができるようにして、友達通しがチャットをしながら、ものを買うサイトにする。そして(3)メタバースへの参入。ゲーマーがつかうサイトになっていく。Robloxといったゲーム開発やVRを体感できること。

そうなるとfacebook経由では、ほとんど読書会を見つけることにはならない。Meta社がめざしているところと違う。では、どうしたらいいか。イベントの運営、参加は次のことを理解したほうがいいのではないか。

ひとつは、イベントを主催するのにある程度名の知れた組織がバックにいること。その組織の(正式ではなくても)承認を得ていること。そうでないとオープンなイベントでは、事件や事故が起きる。組織が後ろ盾しなくても、たとえ、個人でやっていたとしても、それは構わない。ただ、その個人をよく知っているほうがよい。書籍を出版しているのなら、まずまちがいは少ない。

ところがそのようなイベントであっても、やはり、最低1年、できれば3年くらいは様子をじっくりと見たほうがよい。観察は必要。無料だからといって安心はできない。というのは、ある程度大丈夫かどうかを判断するのに時間がかかる。生産的に参加すれば、それだけ手間がかかる。

あまり、じっとしていておとなしく、従順すぎるのもよくないが、そうかといって、自説をいつまでも曲げない、意固地な態度でもよくない。時間と手間を浪費してしまうだけで、学びやネットワーキングにならない。むしろ有害になってしまう。

さあ、2022年の週末イベントでどう過ごす。

タダ乗り

2回目は、タダ乗り問題について書きます。

このタダ乗りというのは、参加者と運営者にとって悩ましい。というのは、どのように位置づけていいのかわからないからだ。参加をしてきても、ひとこともしゃべらないで退出をする。しゃべらないということはそれほど考えていない。ひとは考えないとしゃべれない。なにをしているかといえば聴いているだけ。

聴くことは重要である。それに間違いはない。しかし、聴く力は強化できても、話すことができない。オンラインイベントというのは、聴くだけであったらライブで参加しなくてもいいイベントもある。話すために聴くのであって、どのようなことでも話すことはできる。よく東京にいる人の中で、ひとの話をよく聞いてから、(人に問われてから)、話を簡潔にと促されることがある。それは、島国から離れればまず通用はしない。

わたしが、アメリカの大学院に留学していたころだった。4人でマーケティングの発表をした。前の3人がしゃべったあと、わたしの順番がきた。そこでずっと立っていたこともあり、発言を省いてしまい、Q&Aに移った。そこでクラスメートから強烈な指摘があった。

あのひとはしゃべらないではないか。それではなんのために発表の時間を与えているのか。わたしたちは、発表者の意見を聴くためにわざわざ教室にきているんだ。

アメリカでは、発言をしないと、Engagement (エンゲージメント)をしないとみなす。それだけでなく評価が下がる。次から出番がなくなってしまう。リスクをとらないひとは、ビジネスには向かないというわけだ。これは、経験してみないとわからない。

ぬるま湯につかっていると発言しなくても時間が過ぎてしまう。だれもが最初からうまくはいなかい。しかし、バッターボックスにはいったら、バットを振らなければヒットは打てない。

発言をする機会があるのにしないということは、課題本を読んできていないことである。発言するには、読んで理解していないとできない。ところが発言をしないままであれば、本を読んでなくても時間を過ごせることができる。本を買わなくてもよい。

つまり、そこにおとなしく座っているだけである。そうなると自分の時間を無駄にしただけでなく、まわりのひとの見方も変わってくる。なにをしにきているんであろう。

見物人、風の人、あるいは、たまたまオンラインイベントに立ち寄った通行人。そのような人と見られてしまう。バーチャルであっても、物理的なイベントであっても変わらない。物理的なイベントは、人が行きかう交差点を会議室に移しただけである。会議室に入れば、比較的静かでエアコンがきいていて過ごしやすい。

表の交差点であれば、都心にある交差点でもときどき見かけることができる。霞が関であれ、日本橋であれ。なにかを訴えたい人が大声でアピールをしている。なにかしらの広告や警告をして人々の注意を惹きたがっている。そして、交差点にきたひとたちをある方向に導こうとしている。それを会議室に移しただけなのである。

そうなると広告や警告をいくら聞いたとしても実感がない。自身の仕事や関心ごとにもそれほどのインパクトを与えない。それほど問題意識がないのだ。数回参加して、やがていつか消えていく。

1時間のイベントで自分の成長と変化をしたい人はファシリテーションをするようになる。どのような人がきてもファシリテーションする。ファシリテーションというのは、ひとの意見が聞けないとできない。能動的に問いかけをしていかないとできない。

ファシリテーションというのは、まだそれほど注目されていなかった。しかし、会社でする業務に会議というのがある。そこで生産的なもの、つまり、問題解決をする会議というのが注目されてくるようになった。問題提起をして、策を提示する。その実効性を会議にかけないかぎり、1時間というのは無駄になる。会議のあとのメモを読むだけで済んでしまう。

ファシリテーションをしはじめて1年くらいが経過する。すると同じ人ばかりがファシリテーションをするようになり、だれがやるかが固定してしまう。ファシリテーションにもいろいろな型があるのであって、そのような型を見る機会が失われる。これも運営者にとっては残念なことである。

このタダ乗り。特にこれは25~30歳前後の人に多く見受けられる。このまま、5年も過ごしてしまえば、イベント内で質問をしなくなる。

運営側は、イベントを通して何かを学びたい。課題図書を土台に新たな視点を得たい。異なる意見を求める。自分の専門とは違う専門を勉強してきた人たちに会う。その人から新しい前提やアプローチをを学びたい。そういうことができなくなってしまう。

そうするととかくそれなりの名の通った企業や大学を卒業した人たちのブランドを数多くアピールするようになる。オンラインイベントはブランドを吹聴するようなところではない。これは、学者の場合は別だ。権威ある識者が専門性を担保しているのであって、そこには敬意をしめす必要がある。

実際のところ、社会人のイベントに博士号を持った専門家はめったに参加してこない。登壇者としてしゃべることはあってもネットワーキングはしない。ネットワーキングをするなら所属する学会でする。それほど学者にとっては学会での発表や出版のほうが重要であろう。

タダ乗りをするひとが増えてくることは、運営者にとっては頭の痛い問題であろう。1回、2回しゃべらないで退出ということはよくある。連続でも発生する。しかし、3,4回になるとどうなのか。半年以上もそのような参加態度であれば、運営者のほうがこんなものかと期待を下げていく。

運営の負担

運営側においてもイベントを主催しつづけることは困難な時がある。それは、続けることに困難さが伴う場合。必ず、壁にぶち当たる。どういう壁かというと集客がとまってしまう。人が離れていく。そしてテーマが同じことの繰り返しになってしまう、など。

集客というのは、一度、ひとが集まり始めればそれほど減ってはいかない。一度、一定人数が集まり始めると続く。これはわたしが、実際に英紙エコノミストの集客を柏の葉KOILでしたことでも少しわかる。40分程度の読書会をはじめたとき、KOILにいる300人の会員のうち、何人出席してくるのかわからなかった。しかし、3か月もすると常連が2人、たまに参加する人が1~2人となってきた。その後は続いた。

人の数は、ある一定数に到達すれば、それほど伸びていかない。だとすれば、今度は、離れていかないようにする工夫だ。それは困難を伴う。というのは、読書会というのは、基本的には同じようなことを繰り返し、長く、例えば10年とか続けることが目的であることが多い。

人が離れていく理由は二つある。ひとつは、読書会が思ったほど役に立たない場合。もうひとつは、他の読書会で代替できる場合。役に立たないというのは、本業にそれほど影響がないか、本業以外でも成長の機会がないと決めたときであろう。

また、オンラインの読書会はいくつでもあるがゆえに、ほかに流れて行ってしまう場合が考えれれる。その場合は、去る者は追わず来る者は拒まず。そんなスタンスで続けるしかない。

運営側で最大の懸念としてあげられるのが、時間のロスであろう。事務的なことが多すぎる。場所の確保は、それほどでないにしても、最初の立ち上げのときには、場所を確保していくところからはじめなければならない。都内のフリースペースを予約、主催、料金決済する。

加えて、イベントの案内文告知、主催、終了後の報告と結構な時間がとられる。それで学びとネットワーキングができれば問題はない。

ところが10年も続けていれば、また、同じようなテーマが繰り返されることもあり、それほど学びが多くなくなる。そうすると新しい発見が見つからない。周りがだらけてくるといった悪循環になっていく。それを打破するには、新しい顔ぶれが必要になろうが、そんなに簡単に人が入ってくるわけではない。様々な工夫をしなければならない。

次第に運営をすることが大儀になっていき、姿が薄れていく。そうなると最初に始めた人のほうに軸足が移っていく。そうではなかろう。参加している人の大半が自分で始めて続けるという気概がないとグループとして衰退していく。

わたしが観察した限りでは、30歳前後の運営リーダーがいること、そのひとが3年くらい続ける。そうすると次の30歳くらいのひとに、バトンタッチするというのがよい。5年は長すぎる。参加人数は10人程度でよい。15人は多すぎる。リーダーが3年程度で変わる、循環型がよい。そして、内容面では同じようなテーマで行う。変えない。人は変化には弱い。

形式面においては、曜日を固定。日曜日の早朝がよい。そして、毎週、隔週、月1回と頻度と時間を固定する。そうすることで習慣化できる。一度固定したら変えない。

リーダーが交代しても、内容面、形式面で固定、人数がある程度そろってきたら、イベントは自走していく。自走すれば続く。

どんなに忙しくても、どんなにひまでも、週、隔週、月の負荷が大体同じくらいがよい。週1時間、月3時間くらいであろうか。それ以上になると負担が増えすぎてしまう。それくらいの準備でできるものがよい。

新たな学習のために新たなスキルを獲得しなければならないとなると、時間に費用が発生する。費用も軽視できない。なにかしらのトレーニングを受けたり、教材を買ったりしながら独学をする。そうなるとイベントのために費用が積もっていく。それは感心しない。月、旬、年で予算は決めておいた方がよい。

同じことを繰り返しながら、循環し、自走する。このようにうまくいくことはめったにないが、それでもそうなるように工夫する。そうでないと運営側に負担が押し寄せ、なにかしら怪しい出来事が起きるようになっていく。そうすると不快な場面に遭遇し、期待を下げなければならない。

前提として運営側に受益がなければならない。決して参加者ではない。そして主催者が一番利益を得ないといけない。実際には、組織の外で行う無料イベントにおいてはこのようなことが起きることが極めて少ない。

告知方法

ある程度の参加率で運営側の負担が減り、軌道に乗ってきたとしよう。それでも試練は残る。どう告知するかだ。多くの場合、ソーシャルメディア経由で告知する運営者が多いのではないだろうか。

このソーシャルメディアには、facebook, Twitter, Peatix, Meeupというものがある。ところがそれらの媒体で見つかるものは、ほとんどが娯楽性の高いイベントであって、教育性はそれほど高くない。

Twitterは、もともとベイ・エリアの地震が起きた時、電話回線による通信が途絶えた。その対策としてネットを使って状況を伝え合うというもの。非常事態に備えるものだった。それがいまではイベントの告知として使われている。Peatixがよく使われ、Meetupも使われる。Meetupはデートの相手を探すサイトである。

多くのイベントは、facebook経由が多い。しかし、facebookというのは、どちらかというとエンタメ傾向を強化している。これからは、動画を投稿するサイトにシフトしていく。写真はインスタグラムを使う。

動画サイトであれば、YouTubeやTikTokがある。ただ、これらは、どちらかというとおちゃらけサイトで、ほとんどが短時間の娯楽として利用するものである。そこに同じようなサービスを投入して、ユーザー、投稿者の時間を使わせるというのがMeta社の戦略である。これは、動画の人気サイトのようなものでそこに広告をひっかけて儲けようとするビジネスである。

ここに教育系イベントがはいってくるのはおかしい。というのは、どこまでまじめにやるかどうかは参加者が決めなければならない。ほとんどはまじめにはやれない、つまり、それほど準備をしなくても済んでしまう、そんなイベントへと降下していく。

YouTubeにはたしかによい動画もある。しかし、やってみればわかるが動画には制作において編集スキルが要求される。だれもがユーチューバーになりたいわけではない。むしろ、教育系イベントに来る人は、動画編集にそれほど興味を持っていない。

次にMeta社というのは、広告ビジネスに加えて、ショッピング・サイトとして利用してもらおうとしている。親しいローカルな友人とチャットしながら、お気に入りの商品を買っていく。買っていった商品についてチャットする。そうしてまた新たな友人をローカル・エリアで見つける。

ショッピング・サイトへの広告主は、ローカルに出店をしている中小企業である。中小企業は、店舗以外での売り上げは電子モールに出店をする。自分たちで電子モールをつくりあげるだけの時間とコストをかけられない。するとfacebookに広告費を払う。それが売り上げにつながる。facebookの広告収入のほとんどは中小企業からという。

教育系イベントでは、ほとんどモノの売買はされない。

最後に、Meta社はその名が示すとおり、メタバースの会社になろうとしている。Robloxをはじめ、10代のゲーマーが利用するプラットフォームへと事業をシフトしている。300万人といわれるゲーム開発者がいる。そのうち、開発者でも1,000万円以上の収入を得ているものが結構いる。

ただ、ゲームなのであって、教育系イベントではない。やはり、教育は、学術研究からきて、それが一般解説へとつながり、そこでもっとわかりやすい報道のような伝え方にならざるをえない。ゲームは所詮、ゲームでしかない。

そこでfacebookで告知をしていくには限界が出てくるであろう。そうなると自前サイトからの告知ははずすことができない。参加者は、お気に入りのイベントに参加する場合は、ソーシャルメディアでなく自前サイトにいくほうがよい。

実際、わたしは、13年使ったfacebookをやめた。facebookを使う理由は、関心のあるグループを見つけること。そのグループが主催するイベントに参加する程度になった。友人とつながり、(実際はそれほどつながってはいない)私的な投稿をすることはやめた。必要のない広告ばかりがくるようになったからである。このサイトで商品を買うようなことはない。動画も投稿はしない。ゲームをするひとには関心があるものの、ゲーマーになるつもりもなく、開発をするわけではない。

では、どうしたらいいか。どうやって見つけて、参加を継続するか。そしてどう運営するか。それを2回にわけて書くことにします。

参加者はどうする

では、参加者はどうやって教育系無料イベントを見つけ、参加しつづけるか。成長と変化のために学びとネットワーキングを続け、いかに学習効果を高めていくのか。

ひとつには、それなりの名の知れた組織がイベントの背後にいること。例えば、昨年、2か月に一度、一般参加した無料イベントにHarvard Business School Club of Japanというのがある。HBSの卒業生でもない一般にも公開されていることはありがたい。

母体が背後にいるのであれば、そうはずれたことはできない。しかも学術論文を出版している識者や実際のビジネスで活躍するプロフェッショナルが発表をする。そうすれば、月1回、1時間の集約されたイベントも手際が良い。効率よく参加できる。問題提起としても申し分ない。自身の問題意識も高められる。

HBSのイベントを知ったのは、偶然であった。2019年10月に突然メールがきた。その送り主はMBA友の会という任意団体の案内だった。そこでイベントは一般向けに公開するとあったため、参加した。

MBA友の会というのは、2006年に知った。渋谷にあるAGOS、受験予備校の公開イベントで女性にとってのMBAというのにいき、そこで友の会を知った。当時、イベントで発表をした人は熱心に女性がビジネススクールにいくことを説明していた。ノースカロライナ大学を卒業した美しい女性だった。友の会は、銀座でよく月例会を開き、スピーチのあとに、ビールを飲みながら懇親会をしていた。

13年後に新しいイベントを知った。そういうこともある。

また、六本木にある政策大学院(GRIPS)というのにもメール登録をしておいた。このきっかけは、2006年に、都内で行われていた公開イベントで知った。そのイベントでは、特許を使ったビジネスの可能性について講演が多かった。そこで政策大学院の知財の集まりを知った。法律と技術が交錯する政策を議論するようなところでだった。わたしにはむつかしすぎたため、それほど利用はしていなかった。

するとコロナになって、頻繁に案内が来るようになり、関心のあるテーマも増えてきた。政策大学院を知ったころは、豊洲にあるIT企業の研究グループ、知財活用というところに属していた。ただ、この知財活用といっても特許とは全く関係のない、システムの設計図をアプリで再現する仕事だった。

このイベントにも13年の時を経て、頻繁に参加するようになった。途中、いくどか不可思議なメールがきたが、いまではそれもない。組織というのはメールにも礼儀がある。

組織が背後にいない場合はどうするか。個人をたよって見つけるしかない。それの中で自身の関心に近く、長く続けられるイベントを見つけるのは、それほど簡単ではない。当たりはずれとしては5割くらいある。

2018年の夏にPeatixで見つけた読書会に飛び入り参加してみた。そこでは、ファシリテーターがいて、4人くらいのグループでディスカッションを誘導してくれた。そこには3人くらいのファシリテーターがいて、どのファシリテーターでも選ぶこともできた。

わたしは、3か月続けて、ひとりひとり観察した。次々とひとを変えることはしなかった。1年して、気に入ったファシリテーターが別のイベントに参加していることを知った。そのイベントに継続参加して見ることにした。おそらく、同じような意識の人が集まるであろうという期待値はあった。

それでも1年間はよく観察するように努めた。1年するとなんとなく様子がわかるものである。どのようなひとが参加してくるのか。どんなテーマがあるのか。化学反応が起きるのか。そこでわかったのは、月1回であれば、3年くらいは、じっくりと様子を見てもよい。背後に組織がいない場合は、どうしても波がある。

個人でやっているイベントは楽しさ、娯楽性を備えているほうがいいだろう。組織を背負っていないため、それほど硬い内容でいくことはない。週末につかれているビジネスマンが重苦しい話をしても愉快ではなかろう。ある程度の教育性(ストーリー)があり、ある程度の娯楽性(微笑ましい)ものでよい。

事件・事故が起きなければよい。ときにはマナー違反、品性を欠く言動があるが、これは参加者の解釈、判断によるものでここで言及することもなかろう。

無料といっても完全に無料ではない。本を買って、読んで準備をする。そしてパソコンやスマホに投資をしている。なにより時間を投資している。時間への投資は無駄にできない。手間をかけるのであるから、アウトプット(学びとネットワーキング)がなければならない。そのとおりになっているのか。

一度でも準備を怠れば、次もしなくなる。そうすると時間だけがだらだらと流れる。情報を消費するだけになる。どこかで本業に影響することも出てくる。本業に出てしまえば、そこでアウトということにもなりかねない。

運営のメリット

最後に運営側はどうしたらいいのかについて書きます。

運営の裏側では、予期しないことが頻発する。そしてイベント当日においてもやってみないとわからない。はたして主催をすることで運営にメリットがあるのかどうか。せっかく、苦労をしてイベントを設計、告知、開催をしてもなにかためになっていない気がする。

ある程度、本気でとりくむ人を集めるには、無料から有料にするということも考えられる。有料にすれば、冷やかしに来る人は減る。ところが有料にしたとたんに参加してこない。有料イベントにだれもこないというのがある。また、有料にすると入金管理の手間が増える。金額交渉をする人が出てきたり、支払いをしないずるをし始める。

年会費と徴収するのもいいであろう。ただ、そうしてもだれも振り込みをしないということが考えられる。悩ましい。

そうなると期待を下げるしかない。たが、そうしたくはない。運営にメリットはあるのか。

こういう例があった。ひとつではなく、複数で聞いた。どういうことかというとイベントを主催していると転職に有利に働くということであった。このコロナ過においても転職市場は動いている。リモートワークでどんなことができるか。企業は、積極的にできることをしてくれる人を探している。職務経歴書には書かないが、面接でこの環境下でどんな働きかけをしているかと問うのであろう。

イベントを主催した経験は、プラスに評価される。転職で職位が上がったり、複数のオファーをもらうことができる。参加しているだけでは、イベント主催の経験ができないため、企業がプラスに評価してくれない。なにかに乗っかっているだけでは、企業が評価しないのはあたりまえであろう。

コロナ過でできることはなにか。なにかしてくれるんだろうというのが、企業側の期待だ。

もうひとつは、イベントマーケティングについての経験と知識を身に着けていることであろう。バーチャルにしているといっても実際の会場でやることとよく似ていることもある。広告・出版業界について知ることが増える。これもプラスであろう。意外にIT化は進んでいないようだが、コンテンツづくりは経験として活きる。

運営仲間ができれば、弱いつながりとして、イベントを手伝ってくれることすらできる。ただ、無理をしないことであろう。週末、3時間くらいを使って、重々しいことをせず。軽い話で済ませられるのがいいであろう。

仲間を奮い立たせることは容易ではない。ボランティアでやっていることであり、運営側としてやるだけでもコストがかかっている。学んだことを組織の内外で実装するには、相当、問題意識を持ち、試行錯誤しないとメリットは出てこない。息長く構えないとメリットを享受できない。

以上、まとめると参加者としては、時間と手間を浪費しはじめたら、次第に離れていく。離れないのであれば、忍耐強くなにかが変わるまで継続して参加する。それ以外にはない。いつもでもエジプトの洪水を耐え忍ぶように。よほどのことがないかぎり無料イベントというのは主催者による参加者への広告か警告のどちらかが多い。そこはしっかり理解しておく。

運営側としては、無理をしてしすぎないことであろう。決して、強制ではない活動なので時間を決めて運営する。同じ形式、同じような内容を繰り返すことで続けられるよう。無理せず、変えず、続ける。

そう考えると物理的に存在する大学組織はよくできている。形式面では、シラバスがあり、内容面では、研究をしている教員が担当している。そこでは、事務の人が運営を手伝ってくれており、教室の手配、授業料の徴収、成績管理をしている。組織、設備、人材というだけでなく、こまごまとした運営を裏側で支えるひとがいる。清掃をしてくれる。警備員までいる。

大学は適度な開放性と閉鎖性を備えている。それを無料オンラインで個人が再現するのは、とても難しい。だれもが申し込みできる、一方、ある程度の参加要件のハードルはつけたほうがよい。それが大学ではできていた。そういった恵まれた環境に気づいた。

2022年、運営側と参加側が意識合わせをし、よい学びとネットワーキングの機会になりますように。