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働くなくてよいと人はどうなるか

14年くらい前の事である。どうにもこうにも働くのが苦痛で仕方なくなった。苦痛だけではない。仕事の中で何かしら挑戦するものがない。そうなると仕事をしていても退屈な日々を過ごす。数年間というもの恐ろしいほど退屈だった。お金をもらいながらこういった贅沢なことをしていた。しかし当時のわたしはそうだった。

なぜこんなに苦痛なんだろう。挑戦するものがないことがどれだけ退屈なのか。毎日が日曜日のようだった。しかも豊洲に所在地があったその職場ではめずらしく在宅勤務でさえ許されていた。わたしは1年間在宅で勤務をして2日だけオフィスにいけばよかった。なにか問題を解決したかったのだろう。

英紙エコノミストでこの世の問題がすべてなくなる。そうなると人はどうなるのかという記事が載っていた。その立役者はむろん人工知能である。記事の書き出しはこうだ。30年前にオーストラリアの作家、グレッグ・イーガンがPermutation Cityという小説を書いた。主人公はそこの仮想社会ですべてを手に入れた。その中に永遠の命までも手に入れたとある。するとその主人公が経験したのは恐ろしいほどの退屈さであったと悟る。

オックスフォード大学の哲学者が本を出版した。タイトルはDeep Utopiaとある。彼は10年前にも本を出版した。その時ちょうどAIブームが始まろうとしていたころだ。そこで100年後には6人に1人が死滅してしまうと予測した。悲観的だった。ところが今回の本では理想郷が待ち受けているという。一転して楽観視している。

ほとんどAIが人の仕事をするようになり働かなくてもよくなる。つらい仕事をしなくてもよい。最も人工知能では難しいとされる仕事である子育て。その子育てまでもAIがしてくれる。そんなことが起こるだろうか。この記事が問うているのは起こるかどうかではない。

時間はかかるがいずれそうなっていく。問題はそうなったときに人が何をするかである。つまり働かなくても、仕事がなくても生きていけるときに残ったことは何をするのか。その問いである。わたしなりにその答えを考えてみた。

まず記事への反応だ。

記事によるとほとんどの人が楽しみとしてレジャーに向かうという。そしてスポーツや芸術に多くの時間を使う。おいしい食事をするようになる。確かにそのするだろう。概ね賛成する。

旅行で行かなかったところがある。世界遺産を見に行きたい。もっともだ。

スポーツは健康になるためにはとてもよい。若い頃にゲーム性のあるテニスとかで楽しむ。40歳くらいからはゲーム性を脱して健康のために基礎的なスポーツにかえる。ランニング、サイクリング、水泳。持続性のため速筋から遅筋へと運動を変える。食事も牛肉・豚肉を減らし鶏肉をより多くとる。

芸術を楽しむ。写真や絵画を鑑賞する。自分でも撮って描いてみたりする。全く何もないところから創作をする。その考えている時間。構図をあれこれと考える時間というのはひとの本能を満足させる。すばらしいことだ。

デザインというものも含まれる。そういった人間の本能をくすぐる創作活動に向かうであろう。それに異議はまったくない。そのとおりだからだ。

さて問題はそれだけでひとは完全に満足するであろうか。そこである。人というものの欲求はつきることがない。どこまでも欲深い。しかしお金に対する欲求がない。仕事をする必要がなくなる。そうなると権力を勝ち取ろうともしなくなる。都会で世俗的なものが完全に満たされた状態。

パートナーとの良好な関係にあり子供たちも育っていった。それぞれの道を歩み始めている。そうなるとどうなるか。

これはわたしに向けられた問いである。わたしが答えるとすればこうだ。なにかどこかで役に立っていたい。その欲求はつきない。

例えばこれまでに自分がやってしまった痛い失敗がある。おそらく多くの人がはまってしまう失敗がある。人はいつまでたっても完全にはなれない。それを伝えていくという伝承欲求のようなものはある。そんなこともあってわたしはこのnoteにはブログとして書いている。

仕事で成功することは栄誉である。しかし仕事の目的はお金を稼ぐこと。人としての成長もあるが企業組織にそれを求めてはいけない。ビジネスはゲームである。リーダーシップ、組織開発、経営戦略といったとらえどころのない課題ばかり探索していてもよくない。

どこかに伝えたいというのはある。わたしは読者の皆さんからのスキという反応に対してはそれほどこだわってはいない。まったくゼロというのはちょっと残念。ひとつだけ反応があればそれで前に進める。つまりファンがひとりいればいいのである。読んでちょっとだけそうだなと思ってくれればいい。

わたしはどこか自分の教訓として残しておきたい。伝えたいと思っていることがある。どこかでだれかが読むからだ。痛い失敗を若い人にしてほしくはない。健康やお金、そして家族のことでまず苦労してほしくはない。それらの基礎になるベースがあって都会の生活は成り立っている。

するとわたしは何をするかというと愛読紙のエコノミストを読む。そこで自分に問う。その答えをブログで掲載する。それに対して読者の方になんらかの役に立っていればいい。それで満足するというものだ。

これは長く読んだ雑誌であり、この読書会をはじめてくれた慎泰俊氏へのお礼も込めている。

わたしは若い人が彼のような人になってほしいと思っている。彼のように成功することは難しい。しかし彼のやっていること、やってきたことを実践することを勧める。少なくとも失敗はしない。大きく失敗しないというのはとてもいいことである。

10年近く大学で教えていた時に学生に何ができるかということを考えたことがあった。ほとんどわたしは授業らしい授業をしなかった。学生が自由にテーマを選び企業研究をする。授業で発表してもらうようにした。そのためのきっかけをつくることだけが仕事だった。ほとんど教員らしいことではない。それでも多くの学生は集まった。

そこで気づいたのは大学生に都会で成功する方法は教えられないということだった。では何を授業で学べるか。それは成功する方法は教えられないけれども失敗しないことは教えられそうだということに気づいた。

働かなくてよくなると確かにレジャーはいいであろう。しかしお金も相当かかる。スポーツや芸術も飽きることはない。すると何に向かうかというとこれしかないであろう。なにかの役に立つことだ。

何かと静かに戦っていたいということだ。自分の中で起きる学びとの静かな戦い。知覚のこと。表現のこと。スターウォーズのヨーダのように若い人にうまく伝えること。そういったことを磨いていきたいという欲求は残る。それはどんなに成功をして幸せになったとしてもなくならないであろう。尽きることはない。

14年が過ぎて大学での講義の機会もなくなった。年金生活がはじまった。しかしこれからあと20年は生きるであろう。ひょっとしたら親戚のように90歳まで生きるかもしれない。

そういった境遇で最も恐ろしいのは退屈に過ごすということだ。Permutation Cityという小説の主人公ではないけれどそうやって多くを手にいれたけど退屈してしまう人は実は多い。ゴルフや魚釣りをしていてもすぐに飽きる。それらは私には向かない。

内面で起きる静かな戦い。それを発散させる安全な表現。それは小説を構想して書くことだったり、庭の手入れをすることでもあろう。こういった活動はひとを危険にはさらさない。命が危険にさらされることはない。不快になる程度のことはある。なんらかの充実感をもたらす。

読書会での楽しい会話というものも加えよう。