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人工知能が最貧国を救済する

わたしは40年前にアメリカに留学をしていた。そこではじめてアフリカ出身の学生と比較的長く話すことができた。毎日決まった時間に夕食を共にした。授業が終わってしばらくの間図書館で学ぶ。5時ころになるとお腹が空いてくる。寮の中にある食堂に足を向けた。

食堂には学生が多く押し寄せていた。ミールカードで支払いをすます。そして好きなものを好きなだけとってテーブルに向かう。テーブルにはいつも同じ学生がいた。わたしはアジア系のよくしゃべる友人。YJといった。彼の横にはアフリカ人の学生がいた。勉強の調子はどうだい?そんなことを食事が終わってからもしゃべっていた。

今週号の英紙エコノミストに人工知能の可能性について書かれている記事がある。技術革新により先進国だけでなく最貧国にもそのメリットがもたらされる可能性があるという。特に教育や医療での人手不足を人工知能が補う。わたしはこの希望の光のある記事を好意的に読んだ。経済開発の専門家ではないがひとつの希望としてわたしの感想文を書いてみたい。

この記事の要約は以下のとおりである。

論点としては3つあろう。ひとつは教育分野において人手不足が解消されるということ。次に医療分野での解消。最後に農業、気象、インフラの分野で情報収集がされていくという。ここでは記事で述べられている内容については私の見解を詳しく書かない。

人工知能はデータとアルゴリズムでできている。あくまでも人を補う可能性ある技術である。書かれているように教育と医療分野での貢献が期待できよう。教育では圧倒的に先生の数が足りない。そこでチャット機能が先生の代わりになる。医療では死亡率を減らすことができよう。

ただしこれには時間がかかる。もちろんすぐにとはいかない。ただゆっくりと確実に経済開発は進む。この記事では携帯電話が銀行口座にとってかわったように人工知能が教育・医療を改善すると期待している。

教育では学ぶ側に意欲さえあれば、必要なのは先生だけである。人間である必要はない。理由は先生が与えるものは情報である。高度な知識には人間が必要な時もある。しかし貧困から抜け出るための最初に必要なのは正しい情報を与えることが必要であろう。それが人間からであろうと機械からであろうと情報を与えればいいということになろう。むしろ人間が先生の役割を果たさなくなってきている。

医療は実際の医療行為をするのは人間である。しかし行為を助けるために必要なものは情報であることも事実である。多くの人は貧困から抜け出すことができないため死に絶えてしまう。しかし生きていくために必要な物資があれば次に必要なのは病気やけがをどうやって克服していくかであろう。

時間はかかる。ただ技術革新が最貧国であるアフリカに希望の光をもたらすことは事実であろう。実際にそういった取り組みが行われていることも記事では紹介されている。

留学先でアフリカ人の友人と食事をともにしたことを思い出す。当時は人工知能ということばもなかった。技術について話すことはなかった。アフリカ人の友人はひたすら受講をしている授業のことを語っていた。本をよく読んでいるようだった。

わたしと同じようにどこかから奨学金をもらって留学にきているようだった。祖国に帰ってどうしているかはわからない。しかしながら今では携帯電話を持って知り合いと話をしていることは確実であろう。

いつか遠い未来に人工知能が最貧国を貧困から抜け出せるようにしているニュースが紹介されることであろう。そうあってほしい。