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学長辞任にまつわる陰謀説

時はかなり昔のことになる。わたしがまだ大学生だった頃のこと。1月という寒い季節での学生生活だった。アメリカにはお正月休みというものはない。1月1日元旦だけは休むけど2日からは授業が始まるのだ。ゆっくりとしていられないまま教室に行く。冬学期は4月末まで続く。極寒のキャンパスだった。

わたしは無謀にもアメリカの政治と経済の授業をとった。さっぱりわからなかった。でも日本に帰ることはできない。アメリカに来ているのであって日本ではない。住むところも長期契約をしており破棄することができない。つまり後戻りはできないのだ。それでも授業は難しかった。

政治の授業は中東問題の識者によるものだった。先生はレイモンド・タンター先生。彼は中東問題の専門家だった。専門というだけではない。彼はキャンパスに戻ってくる前は統合参謀本部(Joint chief of staff)の一員として軍人のトップにアドバイスをしていたのである。

統合参謀本部というのはアメリカ合衆国軍の最高機関である。それだけでもたいそうなものであるがそれよりもそこの役職を経てきた専門家が行う授業で何が話されているのかよくわからない状態だった。

日本では政治の授業というと歴史を学ぶことが多い。地政学的なことは学ばない。軍事情勢のことなど学ばない。どちらかというとタブーとして飛ばす傾向すらある。しかしタンター先生の授業では中東の軍事情勢。イスラエルがどのような武器を備えているのか。パイロットの操縦技術がいかにすぐれているのか。そういったことを話していた。いきなり授業を受けてわかるわけもなかろう。

当時は冷戦が暗い影を落としていた。ロシアから飛んでくる大陸弾道弾ミサイルをどうやって成層圏で撃ち落とすか。そんなことまで話題にあがった。レーガン大統領の戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative)なるものが普通に教室内で話されていたのである。

当時それは通称スターウォーズといわれていた。キャンパスにある映画館ではほんとうにスター・ウォーズ/ジェダイの帰還 (エピソード6)が上映されていた。わたしはしばらくどうして政治の授業でスターウォーズの話をするのかわからない状態でもあった。もがきながら必死だった。

ただ4か月、タンター先生はわたしのことを応援してくれたのである。

ハーバード大学の学長、クラウデア・ゲイ博士が辞任した。10月にはじまったハマスによるイスラエル・ユダヤ人の人質事件。それに対してイスラエル軍がパレスチナ自治区であるガザに攻撃をしかけた。一般のパレスチナ人の多くが犠牲になった。

するとパレスチナ系アメリカ人がアメリカのキャンパス内で猛然と抗議デモを展開した。学内は騒然となり授業はキャンセルされ、教授が処罰されるところまで発展した。しかし学長は抗議デモをおこした学生を非難し、処罰することはなかった。

事態はさらに悪化した。ハーバード大学をはじめ、MIT、ペンシルバニア大学でデモは収まることがない。そういった責任をとるために学長3名が議会に招集された。そこで共和党の下院議員から質問を受けた。ユダヤ人を殺戮するように呼びかける抗議デモは校則に反し処罰に値するのではないか。

議会に招集された時点で学長たちは負けはわかっていた。しかし3人の学長は、「はいそのとおりです」とは言わなかった。

3人は口をそろえて抗議の内容による。それがもし特定個人に対して発せらものであればハラスメントとして特定する。そのときのみ処罰を与えると答えたのである。

その後、ハーバード大学のゲイ博士に対してはさらに風当たりが強くなった。博士の出版した論文の多くに盗用が見つかったとの批判がされるようになった。1月2日ゲイ博士は辞任した。

ここまでが10月から1月上旬までに起きた事件である。これをどう理解するかは読者の人たちにお任せする。しかしながらわたしはこの一連の出来事はだれかの陰謀ではないのか。陰謀説を唱えたくなったのである。

つまりゲイ博士は利用されたのではないか。その理由は3つある。

ひとつはハーバード大学の教授会。次に理事会(企業では取締役会)。さらには寄付者と彼らの背後にいるロビイスト。こういったひとたちに利用された可能性がある。どういうことだろうか。

まず教授会の中で意見が割れている。12月の上旬、議会の証言であれだけの失態をしたにもかかわらず教授会は博士の学長留任を支持した。実に700名の教授陣が署名をして理事会に対して博士を学長にとどまらせるようにと懇願したのである。

それをうけて博士の論文には盗用があったという批判が出てきた。これも保守派のメディアとして知られるワシントン・ビーコンというところから噴出した。ところが博士の盗作疑惑は10月にすでに理事会に寄せられていたのである。その理事会が10月の時点で指摘を受けていたにもかかわらず解任しなかった。ここに責任があるのではないか。

どういうことかというと博士を学長に指名したのは理事会であったということだ。学長に盗用疑惑があったということを揉み消したかったのではないか。また教授会の中で彼女を推薦しているひとたちに責任を押し付けたかったのではないかとも受け取られるのである。

このことからして博士は教授会と理事会に利用されたのではないかという陰謀説が浮かび上がってくる。

さらにこれは大胆な仮説になる。ハマスによるイスラエル人質事件の背後には陰謀をたくらんでいる人たちがいたのではないか。ハーバード、MIT、そしてペンシルバニア大学の3人の女性の学長を引きずりおろす。そのためにだれかがしかけたのではないかともいえる。

3人の女性学長は犠牲者なのだ。

辞任に追い込むためにだれかがハマスを誘導した。こんなことを裏付ける証拠はなにもない。ただひょっとしたらということもある。それだけアメリカでは格差是正のための優遇制度を妬むひとたちがいる。そこに乗じて辞任劇を企んだともいえる。

40年前にタンター先生に応援をいただいたことは今日にいたるも感謝をしている。ただタンター先生は黒人の先生であった。しかもリベラルな大学の中でもタカ派として知られ、その強硬な姿勢は大学内でも批判があった。しかしこと教育者としてはとてもやさしいところがあった。頑張っている学生には理解を示してくれた。

わたしはこういった厳しい教育環境の中でもどこかに配慮を持つ人がいることに可能性を見出した。

アメリカはアフリカから黒人を連れ出し奴隷制度を強いた国である。この不正行為は歴史から消えることはない。悪行は永遠に切れることはなく、いつまでもアメリカの汚点として残るであろう。

教授会のひとたちは理解している。この悪行をどこかでだれかが補償しなければいけない。そのひとつの格差是正優遇措置。しかしこれも万全な方針ではない。成績が優秀でしかも受験資格のすべてをクリアしている白人の受験生がふるい落とされるという逆差別も発生している。

そういったことを妬むひとたちもいるのである。自分たちは奴隷制度には加担はしていない。なのにどうして逆差別を受けなければいけないのか。そういった憤慨はある。それをなにかしらにぶつけざるをえないこともありうる。