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戴冠式から見る日本の皇族への見方

わたしの企業勤務を振り返ってみると東京の結構いい場所で働いていた。日比谷からはじまり霞が関へ。しばらく渋谷に場所を移した。渋谷に勤務していたころの最寄りの駅は表参道駅。そこから青山学院大学校舎のわきをぬけて15分くらい歩くとコカ・コーラのオフィスがあった。そして赤坂へ。外資系企業で働いていた時には千葉県の東葛地区から千代田線をつかった。乗り換えをすることなく通勤していた。

勤務先と自宅の最寄りの駅しか使っていなかったため途中下車をしていない。そのため二重橋前駅という駅で乗り降りをした記憶がほとんどない。二重橋というのは皇族が住む皇居の最寄りの駅のひとつ。そこはしばらくの間皇居でランニングをする人たちが乗り降りするための駅だと理解していた。

あるオンラインイベントで英国の国王・戴冠式について話す機会があった。話の途中から日本の皇族への見方に移っていった。英国で5月6日に戴冠式が行われた。ある調査によると英国民の半分はテレビで戴冠式の様子を見ない。おそらく見ないだろうという事前回答をしていた。

こんなことがささやかれている。英国の国王・君主制はどうも時代遅れであること。一般人の生活とかけなはれて豪華な生活になっている。儀式や祭典そして警備や要人が多すぎること。そういった君主制反対論者がいて共和主義を持ち出すという。ただ君主制廃止という革命にまではいたっていない。

君主制いわゆる国王による国の支配というのは重要なのか。その問いかけに対して重要であると賛成を表明している人たちは減っている。1983年に65%であったものが29%へと減っている。実に英国民の3人にひとり以下しか賛同していない。

では日本における皇族の在り方はどのように見るのがいいだろう。わたしは廃止論というところまではいく必要はないと考える。ただもう少し時代に合ったもの。かつ質素な皇族生活というものがありえるのではないか。起源、元皇族の結婚、そして日常の行いといったことからいえる。

まず起源について。皇族の家系図をさかのぼっていけば天照大御神にたどりつく。日本神話に主神として登場する神。女神であり祭られている神社は三重県の伊勢神宮。その家系がいまでも血統となって皇族として東京丸の内にある皇居に住んでいる。

天照大御神というのはもやは時代にはそぐわなくなりつつあるのではないか。イベント内でも30代の人たちは皇族の家系や起源についてはあまり関心がない。反対はしない。ただいまでも神話を持ち出して儀式をとりおこなう。そこが理解しにくいという。もう少し時代にあわせて簡素化してもいいのではないか。

ニュースになったのは小室圭さんと真子さんの結婚である。わたしは個人の結婚に対してとやかくいうつもりはない。個人的なものとして解釈してほしくはない。そのように書くつもりもない。ただあれだけ話題になっているときのこと。ふたりが婚約中に記者会見をしたときのことである。一方があなたはわたしの太陽ですという。そうするとあなたはわたしの月ですと返す。そのようなやりとりがあったという。この会話はちょっと違和感を感じないか。特に若い人たちがこれから結婚をするにあたりどう考えてもあのような思いは持たないであろう。

皇族を離れて小室家にいくときに支払われたお金が1億4千万円以上という。これはいかがなものだろう。額をとやかくいうつもりはないけれども。これがほんとうであったとしたら一般人からすれば皇族を離れるだけでこれだけのお金が支払われる。この根拠がわからない。皇族を離れ一般のひとになったのであればそのように生活すればいいのではないか。どうも不可解になってしまう。

皇族の日常生活のひとつに髪を整えるというのがある。ある人の話によると皇族には専属のヘアードレッサーがいるという。彼らは皇族のひとたちがヘアーカットをするときに皇居にはいる。その際に頭から足のさきまでをきれに洗う。シャワーをあびるかなにかして全身をきれいにしてからでないと皇居にはいれない。髪をきれないという。これはやりすぎではないか。

儀式は簡素化してもう少し今の時代に近い対話をする。そして普段の生活でもいままでのようなしきたりを変えていく。ヘアードレッサーが毎回全身を清めることはしなくてもいいのではないか。

企業勤務を辞めて大学講師を十年続けた。キャンパスは飯田橋にある大学であった。そこから皇居はよく見えた。二重橋前とはちょっとばかり方角が違うけれども皇居に対してもう少しなんとかならないかという思いはあった。

さて大学生の読者の皆さんはどうだろう。あのような儀式でなくてももう少し今の時代にあったものでよいのではないか。科学の時代といわれるときに神話を持ち出して天照大御神というのはないであろう。