易姓革命をめぐる孔子と孟子
中国の歴史を紐解いて最初に出てくるお話しの一つが武王伐紂です。これは殷という国の最後の王様である紂がとても、残酷乱暴な王様であった。臣下や兄弟が諫めてもそれをうけいれなかった。異論を唱える者を捕まえたり殺したりした。この王様を殷の属国であった西伯侯姬發(つまり紂の臣下)が、殷内部の呼応勢力とも連携して、ついに紂を滅ぼし(周王朝を樹立し武王となった)というお話しを指しています(写真は増上寺山門)。
孔子と孟子ではこのお話しの扱いが少し違います。
孔子は武王伐紂を直接論評せず、伯夷・叔斉の兄弟を称えます。この兄弟は、武王が紂を討伐しようとしたとき、臣下が主君を討伐するのは礼法に合わないとして反対します。しかし武王はそれを押し切って進軍し勝利して、周王朝を開きます。二人は、武王は主君を殺す大罪を犯した。その周朝の食物は食べられないとして、首陽山山中にこもり山菜で命をつなぎますが、遂に餓死します。孔子は「論語」の中でこの行為を仁の道を求めた行為として称えています(論語 述而第七(十四) 李氏第十六(十二) 微子第十八(八))。 紂は残酷乱暴な王様ですが、孔子は、伯夷・叔斉を繰り返しほめてますので、臣下がどのような王様でもその主君を討伐することを肯定していないように見えます。
これに対して、孟子は、仁義を破壊した人は一夫に過ぎず、その人を殺しても主君を殺したことにはならない、としています(孟子 梁恵王章句下(八))。これは中国の王朝交代を正当化する理屈になっています。王朝の名前を変えることを「易姓」といいますので、「易姓」あるいは「易姓革命」を孟子が正当化した、という言い方があります。
資料:「武王伐紂」載『中国歴史便覧』外語教学与研究出版社2007年 pp.14-15
「武王伐紂」載『史記故事』中華書局2012年pp.12-16
「伯夷叔斉餓死首陽山」載同前書pp.21-23
加地伸行全訳注『論語』講談社2004年
貝塚茂樹訳『孟子』講談社2004年