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王丰 鄧子恢與“四大自由” 1995

この論文は「党史研究」の1995年第6期に登場した論文。私自身かねて関心をもって紹介してきた、鄧子恢の四大自由論について、正面から論じている。書誌事項は以下の通りで、今回はこの論文を全文訳出する。
王丰《鄧子恢與"四大自由"》載《中共黨史研究》1995年第6期72-74,64.

p.72    建国前夜と解放初期、鄧子恢は異なる場合に異なる”四大自由”を語り、議論(争論)を引き起こし、批判を受けた。鄧子恢自身も自己批判した。数十年が経ち、そのときの歴史を回顧することは、教訓とするところ大であろう(頗有藉鑒價值)。
    一. 鄧子恢は異なる場合に異なる内容の”四大自由”を論じた
 鄧子恢が最初に”四大自由”を提起したのは、1948年、当時彼が中共中央中原局第三書記に任ぜられていたときである。8月27日から28日、彼は中原大学の教師学生に対し「党の総路線と総政策」という報告を行い、中国革命の性質に話しが及んだときに、初めて”四大自由”に触れた。彼は言った。「新民主主義は基本上はまさに資本主義である。資本主義は私有財産を承認するものであり、我々の土改も土地を農民の私有にするものであり公有にするものではない。すなわち耕す者がその田を有するのであり国がその田を有するのではない。土改のあとは土地所有権証明書(執照)を発給しますので、人々はすぐに土地の自由使用を理解できる(降分得),貸し出しも売り出しも等しくできる。資本主義の四大原則、新民主主義制度のもとでもこの四大原則は承認される。すなわち:一、売買の自由;二、雇用の自由(双方の自由意思によるもの:雙方自愿的);三、貸借の自由(高利貸は農民の貧困のもとで生まれたもので、かつ高利貸の搾取と農民の困窮程度は正比例する);四、土地を貸借する(租佃)自由。我々がそれゆえこの四つの自由を承認することは、まさに我々の革命が、中国の発展において資本主義を推進(推動)するものであることを説明している。今日資本主義は進歩的であり、中国はまさにそれを必要としている。それ(資本主義)は中国の農業工業をすべて発展させることができる。中国の国民経済の貧しさと人民生活の苦しみの最大の原因は資本主義の未発展にある。我々の革命の任務は目下は、まさに資本主義の発展を推進することにあり、資本主義が未発展では社会主義は不可能である。」
 1949年5月、開封日報紙上に掲載された「投機商の非合法な荒稼ぎ(漁利)に警戒(警惕)せよ」について、5月25日鄧子恢は編集部あての公開信の中で指摘している。該当の文章には重大な誤りがあり、重ねて「四大自由」を説明すると。彼は書いている。「新民主主義建設の長期過程において、私人工商業はとても大きな比重と重要な位置を占め続ける。これらの私人資本の存在と発展は、人民経済にとり有害なところがないだけでなく、助けになり(有利的)必要なものである。今日の中国は資本家が多すぎるのではなく、資本家が少なすぎるのである。我々の当面の任務は、いかに資本を制限統制(節制)するのではなく、いかに彼らの積極性を促し高めるかにある。これらの同志は私人工商業を理解できないばかりか、ほかのためにも、利益を図るためにも、稼いで富むためにもなっていない。彼らが儲けることで、工商業も発展を始めるのである。これは社会に取り、人民に取り、良いことである。だから我々は必ず私人資本が儲けて富むことを許さねばならない。人民政府の法律は、これらの正当な私有財産を必ず保護すべきであり、営業の自由、売買の自由、雇用の自由そして貸借の自由を必ず保護すべきである。これは新民主主義社会が保留するべき経済法則であり、我々は其れを動揺させたり破壊すべきではない。」1949年5月25日《開封日報》。
   1949年6月から1952年、彼は中共中央中南局第二書記であり、中南軍政委員会代理主席、実際には中南区の工作の主担当であったとき、大小の会議でまた何度も「四大自由」の内容について語った。とくに彼が主担当として制定した1950年から1952年毎年最初の「春耕発展の十大政策について」の中は、いつも雇用、貸し借り、田畑の貸借そして交易(貿易)の自由を保証する内容があり、それはのちに議論を引き起こすいわゆる「四大自由」問題であった。彼は都市工作に赴いて話すとき、何度も資本家は経営と工員を雇う自由を許されることに話し及んだ。
 実はこの問題を最も早く提起したのは、比較的早く土改を完成した河南省の人民政府であった。彼らが制定発布した十項政策の布告の中で提起している。「各階層人民の土地、家屋、財産所有権が、確保されねばならず、すでに分配された土地財産は、一律に
p.73   個人所有に帰されており、あわせて経営、管理、売買、交換の自由が確保されねばならない。」鄧子恢は各地が集団的に創造、提起した「四大自由」をまさに総合して体系付けを始めたのである。

 二、鄧子恢提唱の「四大自由」は一定条件下の自由である
 鄧子恢が提唱したいわゆる「四大自由」には条件があり、無条件ではない。制限があり、無制限ではない。相対的であり絶対的ではない。彼は中南局工作を主担当した間、人々が彼の話を誤解しないように、次のように解説している。雇用自由のスローガンは提起して良いが、この自由には条件がある。貸借の自由について、彼は述べる。「今日貸借の自由を提唱が必要である。農民は貸借が必要である。国家は農民を助けるためこのカネをもって助けに行けず、困難をすべて解決することはできないが、農民は直ぐに借りる必要がある」「貸借をゆるすことは高利貸しを野放しに発展させることなのか!そうではない。われわれは相互貸借(信貸合作)を提唱すべきである。高利貸しを減少させ、最後には消滅させる。単純に行政命令を用いて、高利貸しを高利貸しを禁止しきれるものではない(禁止不了的)。」田畑の貸し借りの自由(租佃自由)について彼は言う。「土地売買と田畑貸借の自由は、土地法上規定されており、今日なお禁止できないのだが、この種の自由の範囲はとても小さい。実際上は、奥さんもおらず一人で国家のために働いている軍属の人や耕すための労働力ない人の土地を貸し出すことを許すだけである。」「今日土地の売買はできるが、勝手気ままに売らせてよいのか?そうではない。われわれは、農民が農民が困難を克服することをできる限り支援しなければならず、各方面から貧しい農民を助けねばならない。例えば貸付、互助合作などなど、農民に土地を売らせないように。」貿易自由問題について彼はのべる。「商業売買の自由は禁止できるものではない、私人が売買することを許さないとか、国家が何もかも提供する(國家要包)ことはできることではない。例えば、木材は過去完全に統制した。ただ木材会社に売り与えるではうまくゆかなかった。完全な自由もまたうまくゆかず、やはり一定の市場管理は必要だということになった。だから、貿易自由も統制はあるのだ。」
 彼はさらに述べる。「都市で私人資本の発展を許すことに、危険はないのか?ありえない。」彼は結論を述べる。「第一に、今日の国家は人民の国家で、政権は人民の政権である。第二に、銀行、鉄道、郵便電信、鉱山、大工業の運営といった、中国の経済の血管(命脈)は人民の手中にある。第三に中国の労働者階級は共産党とともにある。第四に、農民と広大な小資産階級もまた共産党とともにある。第五に国際形勢は日増しに社会主義に向かっている。これらの条件のもと、中国の私人資本の発展は新民主主義の範囲を超えて発展すること、独占資本主義の道を歩むことは明確にありえない。」
 1953年に彼が中共中央農村工作部長に就任したあと、これらの問題についての論述は、さらに厳密(嚴謹)になった。1953年4月、彼は全国第一次農村工作会議を主催した。総括報告のなかで合作化運動の中で誤った傾向を批判するなかで、関連して指摘した。「今日全国範囲でいえば、焦って急いで突進すること(急躁冒進)は主たる偏りであり、主たる危険である」。同時にまた「私有を確保する」そして曖昧に(籠統)提起された「四大自由」のスローガンを批判した。

    三、鄧子恢は(19)50年代に不適切(不應有的)批判を受けた
 1953年に鄧子恢が農業合作化問題で反冒進であったこと、この点、毛沢東はもちろん不満(并不贊同)だった。10月、鄧子恢が北京の外に視察に出ている間に、毛沢東は農村工作部副部長の廖魯言,陳伯達と談話。そして「私有財産を確保する」と「四大自由」を批判した。毛沢東は合作社でほどほどできるものはほどほどに、大きくできるものは大きく行うものであり、大きなものを見る必要なしとすることは不満で、合作化の歩みは歩みを早めるのが良いと考えた。11月初、毛沢東は再び、廖魯言,陳伯達を呼び出して談話し、中央農村工作部は「終日集まって、無駄話をするだけ(言不及義),良い行いは少なく、どうしようもない」と批判した。「ゆっくり進みつまりは前進しない」「反冒進」は誤りであり、農業合作化はその歩みを早めるべきだと指摘した。
 1955年、農業合作化の速度の問題で、鄧子恢と毛沢東とは再び争った。7月末、毛沢東は各省市自治区党委書記会議で「農業合作化問題について」と題した報告を行い、「まるで足の小さな女のように(像一個小脚女人)、東に西にと揺れながら道を歩いている」と鄧子恢を匿名で批判した。10月、中共七届六中全会で、毛沢東は鄧子恢の名を出して批判して言った。「四大自由」「新民主主義秩序の強化(鞏固)」は資産階級の綱領であり、二中全会に反したものだと。このようなスローガンを提起するのは、綱領レベルの誤りだと。「四大自由」は制限があるべきであり、「四小自由」とすべきだと。さらに言った、一部の同志たちは無駄話をするだけで、良い行いが少ない。すなわち社会主義を論じるだけだと。これが(この毛沢東の言葉が)鄧子恢の「四大自由」の問題性を確定してしまった(這就給鄧子恢的“四大自由”定了性。)。
 この七届六中拡大会議においては、248の発言すべてが毛沢東の農業合作化問題の報告擁護で一致し、合作化運動中の”右傾機会主義”を批判した。一部の人がとくに個別の事例を収集し、あるいは伝聞そして
p.74   事実を推し量り、脚色を加えて(加以渲染)、各地で農民群集の社会主義積極性がいかに不断に高まっているかを説明し、この年の前半の「停止」「縮小」がいかに不満であり残念なことであるか、ただ富農と富裕中農だけから聞こえる「断固収縮」のあと、(今)いかに気分が高まっているか(興高采烈)などなど(と報告した)、これらの”事実”により、鄧子恢に対してまず猛烈な批判が進められた。
 大局を考え、中央との団結一致を保持するため、鄧子恢は自己批判し、思想上右傾(していたこと)を承認した。その後、彼の秘書が「四大自由」はどういうことであったのかと質問したときに、鄧子恢はつぎのように回答している。私が四大自由を提唱したことはない。当時四大自由(すなわち田畑の貸借、工員雇用、金銭貸借そして貿易の自由)を唱えることは、もともと河南省委第一書記の藩復生が行ったもので、当然私も同意していた。建国初期の1950年から1952年、中南軍政委員会は『農業発展の十大政策』の形で布告を発表、(そこには)四つの自由保護の内容があったが、当時これは窒息していた農村商品経済をよみがえらせる上で積極的作用があった。当時、東北、華北、華東、西北など各大区軍政委員会では前後して同じ内容の「四大自由」を許す布告を発して、当時農村生産の回復に有益だった。しかし、鄧子恢は会議の中で弁解することは望まず、さらに責任をほかの人に押し付けることを望まなかった。
 (19)60年代初期三年の困難な時期、鄧子恢は積極的に各戸責任制(包產到戶)を提唱した。1962年中共中央政治局北戴河会議で鄧子恢は再度厳しい批判を受けた。個別経営の風(單幹風)を吹く話をして、社会主義の道を歩むことに動揺を生んでいると。毛沢東は鄧子恢の古傷(老賬)を再び掘り起こして述べた。「鄧子恢同志は動揺してしまった、形勢の見方はおよそ真っ暗で、各戸責任制を全力で提唱している。彼はまた1955年夏以前には一貫して合作社をしたいとは思わず、合作社を行うことに対しては、痛惜のこころもなく数十余りの命令を取り消した。その前には四大自由の提唱に尽力(竭力)した。いわゆる良い行いが少ないことと、無駄話をするだけということとは関係があるのだ。」
 8月の政治局北戴河会議と9月の八届十中全会は、いわゆる「翻案風」「單幹風」そして「利用小説反党」が批判された。そして「單幹風」批判の重点は鄧子恢批判だった。闘争の気分は、1955年のものと比べられないほど(大きかった)。鄧子恢は再度批判を迫られた。(また)自己批判だけで事は終わらず、中央農村工作部は「十年何も良いことをしなかった」として解散することになった。鄧子恢は国家計画委員会副主任に任ぜられた。1964年には副総理(ママ)を免じられて、全国政協副主席に任ぜられた。
 しかし事情もまた終わらなかった。文化大革命期に至ると、鄧子恢批判の調子はますます高まり、1968年10月開催の中共八届十二中全会がその頂点だった。当時彼と朱徳がいた小組には、王洪文、姚文元,黃永勝,吳法憲らの人がおり、朱徳への集中攻撃の後、彼は集中砲火を浴びた。彼は「古くからの右傾機会主義分子」「資本主義の道を歩む者」「農村工作の黒い専門家」であると言われた。彼は一貫して社会主義に反対し「資本家に頼っており」「四大自由を行い」「合作社を取消し」「三自一包を行い」死んでも改めない等と言われた。党の九大において、彼は改めて中央委員に当選したが、朱徳、陳雲などの同志と一緒に、党内の右方面の代表人物とみなされた。

 四、重大な(深刻的)教訓
 第一、歴史段階は超越できないものだ。建国の初め、鄧子恢が当時の具体条件のもとで、小農経済の現状から出発し、農村の雇用、金銭貸借、田畑の貸借そして交易(貿易)をある程度自由にすることを許すことを提起したことは、当時十分遅れていた農業生産を発展させ、群衆の生活を改善し、群衆の気持ちを安定させ、社会生産力を保護する上で、いずれも必要であり、農村経済の発展させる深遠な歴史的意義があった。毛沢東と鄧子恢はともに社会主義建設を主張したが、毛沢東の提唱した社会主義にはより多く理想的要素(成分)があり、鄧子恢の主張は社会の現実に沿っており、強大な生命力を備えていた。
 第二、農民は自由でなかった。我が国が農業立国として、農業の基礎地位は揺るがすことはできない。農民の積極性は必ず保護されねばならない。毛沢東と鄧子恢はともに農村、農民と農業問題をとても重視した。彼らはいわゆる「四大自由」問題で原則に差異はなかった、ともに「大きくは集団で、自由は小さく」と主張した。しかし鄧子恢の農民の「小自由」保護は断固としており、一貫しており徹底しており、その措置は具体的だった。残念であるのは、鄧子恢に対する誤った批判が社会主義事業に重大な悪い結果をもたらしたことである。農民に最低限度の経済自由がなければ、農民の積極性は生まれようがない。我々の党の農村政策上の誤まりは、相当長期間、農民の積極性を妨げ、中国農村経済と全国民経済の健康な発展に影響した。

p.64  第三、必ず厳格に党内の民主集中制を厳守しなければならない。毛沢東はかつて言った。真理はしばしば少数の人の手にあると。党内では異なる意見の正常な議論をゆるすべきであり、人を力で押さえつけたり、あるいは大勢で少数の人を集中攻撃してはならない。無限の政治原則はあってはならない(不能無限上綱)。(19)年代、鄧子恢と毛沢東の議論において、合作化をめぐる議論、あるいは合作化の速度をめぐる議論のいずれにおいても、鄧子恢が路線上の誤りを犯したということはできない。(19)60年代、鄧子恢が各戸責任制を提唱しているとしても、ただ集団経営の管理のもと、責任制を実行するもので、農民の積極性を高めるためであり、集団経済を不要とするものではなく、社会主義をしないというのでもない。無論、決して資産階級民主主義の立場で、富農や富農中農の党内代弁人で発言したということはできない。文革の中で、彼を昔からの右傾機会主義者であり、「一貫して社会主義に反対してきた」というのは、適当に陥れようというものであり、批判を受けない原則(無限上綱)(を立てるものであり)、党の優良な伝統と作風に完全に違背している。     (作者単位 農民日報社)

最後に以下を紹介しておく。
鄧子恢 (トン・ツホイ 1896-1972)
    鄧子恢   四つの自由を提唱 1948年8月
 鄧子恢   私人資本援助を提言 1949年10月 
    鄧子恢を小脚女人と批判 1955年7月31日
 鄧子恢   人民公社問題意見書 1962年5月 
    王豐「鄧子恢と四大自由」1995年6月
    菅沼正久「中国農業合作化論争」『立命館経済学』第44巻第6号1996年12月, 765-781 菅沼の記述の仕方に偏りを感じたがとりあえず。
 福光寛「農業政策で主張を堅持 鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972)について」『成城大学経済研究』218号2017年12月,  451-491
   (訂正 トン・ツーホイ → トンツホイ)



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