楊偉名《當前形勢懷感》又名《一葉知秋》1962/06
この文書のことは、胡德平《中國爲什麽改革-回憶父親胡耀邦》香港中和出版有限公司2011年pp.30-39で《“一葉知秋”的萬言書-中國爲什麽改革之一》と題された巻頭に置かれた章を読んだときに、初めて知った。早速、楊偉名《一葉知秋-楊偉名文存》社會科學文獻出版社2004年を入手。以来時々、拾い読みをしていたものの紹介までに至る時間がなかなかなかった。いま少し時間があるので、楊偉名の紹介をしたい。(写真はヒペリカム・ヒドコートだろうか。竹早高校傍で出会った。)
楊偉名(ヤン・ウェイミン 1923-1968)は1923年陝西戶県生まれの農民である(以下の楊偉名についての説明は、胡德平の上述論文と《一葉知秋-楊偉名文存》掲載の仝德普《歷史的誤傷》pp.151-180をまとめたもの)。
正式の学歴としては地元の小学校に学んだだけであるが勉強熱心だったことで知られる。戦後、戦後解放直前に1949年2月入党したが、妻と幼子を守るため、妻に懇請されて脱党している。解放後、土地改革での貢献が認められ、郷長に任命され、1957年には復党を果たしている。そんな彼を待ち構えていたのが1958年から始まる「大躍進」運動であり、その中で人民公社や人民食堂といった運動を指導することであった。さまざまな矛盾に直面した楊偉名は1960年からたくさんの建議を書き、県や省の党委員会などに送るようになった。省や県の委員会はこうした行動をほめて励ましている。だが1961年に社会の矛盾は深刻になり62年2-3月に生活の困難は極点に達した。そうした中で、楊偉名が執筆し、支部委員会の2人の同意をえて党員3人の連名で、県や省の党委員会に送られた文書が、「当面の形勢への感慨(當前形勢懷感)」である。
経緯は不明であるが、この文書は地元の新聞「陝西日報」に掲載されたほか、省委員会宣伝部刊行の「宣教動態」に掲載され、6月28日には中央宣伝部の「宣教動態」にも掲載された。こうした文書の扱いをみると、省あるいは党中央幹部の中に、楊偉名の意見に共鳴するものも少なくなかったことが推測される(福光)。ちなみに鄧小平が黒猫白猫論を述べて、農業生産回復に役立つものを採用するべきだとしたのは1962年7月のことである。
事態が楊偉名らにとって逆転するのは、1962年8月、毛沢東がこの文書を党の八届十中全会で読んでからだとされる。毛はこの文書が、(人民公社のような集団経営でなく)単独経営を望んでいるとして、共産党員は無関心でいられない(不能無動於衷)と対応を促した。この結果、楊偉名らの立場は全省的な批判を受けるものに急変してしまった。そして楊偉名の悲劇は文化大革命がはじまった直後の1968年3月6日に、楊偉名とその妻が自殺するまで続いた。
では毛沢東をして、反撃の必要を感じさせた「当面の形勢への感慨(當前形勢懷感)」の内容はどのようなものだろうか。論旨は明解で、毛沢東が進めていた急進的な社会主義路線を否定し、新民主主義経済に立ち戻り、それを継続すること、農業の集団化については農民の自発性に委ねることを主張している。語彙の豊富さや比喩表現の巧みさ、歴史への目配りにも注目したい。その知性の輝きにも注目したい。ここでは、その一部を訳出して紹介に代える(楊偉名《當前形勢懷感》載《一葉知秋-楊偉名文存》社會科學文獻出版社2004年pp.1-17)。
p.1 前言
農村の基層工作に参加して、すでに8年あまり、ひたすら恭順して思い返す(扶手回顧)様々な思いが入り混じる。現在の困難な形勢のもと、見聞するところは狂わんばかり、心胸を直撃し、感情の高ぶりの余り、口述筆記は常に感情を抑えがたかった(情不自禁)。
この”懷感”は、上級指導に向けて”喜ばしいことを報告する(報喜)”ではなく、”心配事を報告する(報憂)”である。しかし目前の形勢を言うなら、”報憂”と”報喜”は重なっている。それゆえに”懷感”は、”苦口之薬(苦い良薬)””逆耳之言(聞きづらい忠告)”とかなり似ている。
この”懷感”は各節の述べるところは、多くの重複(不少重叠)のところがあるが、そのすべての角度は異なり、異なる比喩を用いて、繰り返し問題を説明している。
この"懷感"は個人の見解に属し、あるいは「一枚の落葉で秋を知るように、ほかの地でも同じあろうか(一葉知秋,異地皆然)」といったもの、あるいは「穴の底にいて世間知らずなのに天下論ずる(坐井觀天)」すなわち竹筒を通して空を見る(管窺)の誤り(謬)といったものにとどまるものかもしれない。しかしその述べるところは実践した事実と自らの体験によるものであり、真実の程度には相当に自信をもっている。
(中略)
p.2 一 ”延安撤退”の記憶
1947年4月、わが党中央は”自ら延安を撤退すること”を決定した。以後の形勢発展は、この一手が極めて英明果断なものであったことを証明している。(しかし)まさに”自ら延安を撤退する”とき、一部の同志は理解できず(思想搞不通)、延安は党の中央所在地であると考え、撤退すると、国際的声望や人心士気に影響は大変大きいとして、全力で守らねばならない、とした。当時もしこのような観点が実行されたなら、延安の防衛が出来なかっただけでなく、迫られて撤退した後、回復は誠に難しかった。
(中略)
形勢は切迫している。しかし困難の克服はとてもたやすい。鍵は、当時自ら延安を離れた果断な精神を、迅速に当面の形勢に応用できるかどうかにある。例えば一類物資自由市場の開放、中小型工商業の”改造”に変えて”抑制”、農業方面で”集団(集体)”か”単独経営(單杆)”の採用は人々に自分で選ばせる、など、すべてを大胆に考慮することである(以下各節を見よ)。”一類物資についての市場開放”問題については、かつて取り上げたところである。
数年来、我々は退く方向で仕事をしながら、なお効果を得てきた。しかしなお目標には到達できない。今一歩進むことはまさに全国民経済の政策方針を全面徹底調整することであるが、困難の克服がまず必要である(直到困難剋服而后止)。
p.8 私は自身考えるのだが、我々の国家は「経済が発達しておらず文化科学も劣った(一窮二白)」国家である。この未発達で遅れた薄弱な基礎の上で1949年の解放にはじまり1955年の合作化に至るまで、わずか6年前後の時間で、我々の新民主主義の任務は、本当に完成したのだろうか?答えは否定的だ。わずか6年の時間のなかで6億人の遅れた農業国家を、新民主主義の強大な工業国家として建設して変化させることは、
p.9 いかにしても想像もできないことである。
ある人がかつて、我々の社会主義建設には二歩の歩みが必要である(新民主主義から社会主義へ)、とかつて言ったことがある。もしそれでわれわれの第一歩がまだ十分歩めていないなら、(社会主義への 訳者挿入)第二歩がどうして十分に歩めるだろうか?
新民主主義の建設に二三十年必要だとする、(また)新民主主義から次第に社会主義に向かう過程(過渡)が長期の転化過程であるので、さらに二三十年必要だとする。これを見て分かることは(由此看來)、我々が過去行ったことは明らかに苗を引っ張って成長させようとするもので、道理(客觀規律)に反している。
以上に述べた情況からみて、我々が数里今一度後退する問題はとても簡単である。工商業政策方面では、大体,孫中山先生の「私人資本を抑制(節制)し、国家資本を発展させる」原則を尊重(遵循)する。農業方面では、集団(集体)か単独経営(單杆)かは人々の自己選択(自願)原則による。これが養鶏で卵を取るとということであり、鶏を殺しては卵を取れないということであってはならない。これが窯の底の焚木を抜く(釜底抽薪 根本的解決の意味)ということであり、お湯を抜いてから沸騰させる(揚湯止沸 根本的未解決の意味)であってはならない。これが根本の道であり、ほかの治療法はない。これが我々の退く終点である。
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