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王丹 中華人民共和国史十五講② 土地改革と反右派闘争 1950-62

王丹『中華人民共和国史十五講』ちくま学芸文庫2014年から第4講そして第5講から抜き書きをつくる。以下の記述のうち、いわゆる反右派闘争は1957年6月からであるが、その前に胡風批判などが先行しておきている。以下にでてくる大飢饉は1950年代末から1960年初頭にかけてがシビアだった。4000万を超える非正常死をもたらした一大惨事である。

p.112    1950年6月、中央人民政府は綱領的文書「中華人民共和国土地改革法」を発布した。土地改革の目的は、「地主階級の封建的搾取にもとづく土地所有制を廃止し、農民の土地所有制を実施する。それによって農村の生産力を解放し、農業生産を発展させ、新中国の工業化にために道を開く」ことであると宣言したのである。

p.113  (1950年)8月20日、中央はまた「農村階級区分に関する政務院の決定」を公布して基本文書とし、農村における、地主、富農、中農、貧農の四種の階級成分を区分した。

p.113   農村の土地改革の主要な内容は階級成分の区分と土地の再分配であり、主要な対象は地主郷紳階級、主要な手段は闘争大会、主要な発動者は土地改革工作隊と貧農・雇農を主とする農民協会、主要な戦略は雇農と貧農に依り,中農と結び、富農を中立化し、段階を踏んで個別に地主階級を消滅させる、というものであった。

p.115   地主郷紳勢力は自身の武装をことごとく失い、また国民党政権の庇護と支援をも失って、ただただ土地改革運動に服従するしかなくなったのである。

p.117   土地改革運動の基本的な手法は、暴力に依拠しながら大衆を動員することであった。

pp.119-120   (葉剣英ら広東地方の指導部は暴力的色彩を控えたがこれは毛沢東に批判され、広東の幹部は更迭されて、やり直された。)

P.122 土地改革運動の間接的な成果は農村の郷紳階層の存在と宗族の影響力を根本から消滅させたこと・・・同時に、農民は土地を得て、生産の積極性が大幅に向上し、農業生産の急速な回復と発展とが招来された。(この説明は共産党の説明と同じで、違和感がある。留保をつけるべきではないか?福光)

p.123      集団化への道は、「統一購入・統一販売」政策から正式に始まった。この政策の制定は、1953年の食糧危機に起因する。

p.124      その実質はと言えば、農民の手から低価格で一方的に食糧を購入する施策にほかならなかった。これは、・・・国家による収奪行為である。この政策に歩調を合わせて、農村の集団化が一刻の猶予もならなくなった(この集団化の説明も、共産党寄りで、違和感がある。ここも留保があっていい。福光)

p.125       1950年代の初めに中央で農村工作を担当していた鄧子恢は、農村の互助運動は焦って推進してはならず、農民の生産意欲を安定させるよう、一貫して主張していた。

p.128       しかしながら1953年の初め(これは訳がおかしい、1953年開始 なので「1953年から」「1953年になると」)毛沢東の立場に180度の転換が生じた。はじめて新民主主義という提起の仕方を放棄し(これも訳がおかしい、「新民主主義という提起の仕方の放棄を開始し」)転じて社会主義への移行を提起したのである(これも訳がおかしい、「転じて」ではなくて「そして」でいい)

p.131   1958年5月、中共は第八回全国代表大会第二回会議を開催し、毛沢東主宰の下、「社会主義の総路線」を制定した。

p.134    食糧について嘘八百の報告がなされた結果、当局は中国の食糧生産はすでに飽和状態に達したと考えた。食糧買い上げの割合が引き上げられた。農民はわずかな食糧さえ手元に収めることが出来ないのに、限りある食糧をさらに余計に納入しなければならなくなった。こうして大飢饉は免れ難いものになった。

p.136     中央へ飢饉の真実を報告した地方官僚もいるにはいたが、批判や闘争にさらされてしまうので、多くの地方があえて情況をありのままに報告しなくなった。

p.138    反右派闘争が展開するなかで、社会には勇気をもって真実を語る人の数が少なくなり、体制を監視する力が大幅に弱まった。

p.139    経済的側面から見るならば、1959年と1960年に食糧徴収の行きすぎがあった。生活に必要な食糧さえすべて取り立てられてしまったので、農民は餓死するほか道がなかった。

p.140    合作化運動と大躍進政策こそ、大飢饉を引き起こしたもっとも直接的な要因である・・・
 合作化運動は1955年から始まり、1959年にはすでに悪い結果が現れつつあった。主として農民の生産への積極性が低下し、農業収入の激減を引き起こしていた

p.141   そのほか、大製鉄運動によって、全国の壮年労働力はすべて製鉄に動員され、農地・田地の労働力の深刻な不足を引き起こした。これが食糧減産の直接の要因となった。

p.143   大飢饉をもたらした真の要因は、一党独裁の全体主義体制であったというべきなのである。・・・Frank Dikotterの述べるごとく・・・中国の一党独裁は社会と人民のあらゆる自由を消滅させた。言論、移住、旅行、情報の自由もなく、民衆は命令に従い、党の指示どおりに動くだけであった。誤りを正す方法もまったくなく、幹部でさえも不自由で、いかんともし難い情況が現れていた。

p.151   7000人大会(1962年1月から2月 訳注)の後、毛沢東は長期にわたって武漢で過ごし、しだいに中共中央の日常工作から遠ざかった。

p.157    (大飢饉でも中共の統治基盤が動揺しなかった理由)
第一に、1949年以降、・・・国家の暴力がすでに脅威ある力として充分に展開されていたからである。人民の反抗意欲は手手知的に抑圧され、恐怖が人民に反抗を放棄させた。・・・
第二に、全面的な情報の封鎖と偽りの輿論・宣伝によって、絶対多数の国民が―大部分の官吏も含めて―発生した情況を本当には理解できずにいたからである。 

p.162     中国共産党史の専門家、高華は言う。
・・・・「五・四」の知識分子は、自分の肩に「啓蒙」と社会批判の責任を負っていると考えていたが、毛沢東は、真に「教育」と「啓蒙」とを受けるべきなのはまさに知識分子であることを知らしめた。・・・毛沢東は、知識分子が重要とみなす社会批判を逆手にとって、かれらが「自己批判」を行うよう要求したのである。

p.164     毛沢東が真に敵視し意図的に攻撃を加えたのは、まさしく人文科学の知識分子なのであった。人文科学の思想的成果は、全体主義のイデオロギー独占を打破できるばかりか、当局の輿論宣伝に挑戦状をつきつけることもできるからである。

p.165     毛沢東が知識分子一般を嫌っていたということにはならない。真に嫌っていたのは知識分子の持つ独立思想である。そう断定してもよいのかもしれない。

p.177     胡風が個人の創作の自由と主観性とを強調していたのに対し、毛沢東は文芸が政治に奉仕するよう要求した

p.190    1955年7月19日 胡風逮捕

p.190     (郭沫若は 中国科学院院長であったが 胡風批判に迎合した)

p.223       自身の良識を堅持し、全体主義への屈伏を拒否した人たちもいた。作家の阿瓏はその代表的存在である。

p.224-225     知識人のもつべき気骨を示したもの
たとえば「聖女」と呼ばれた北京大学生の林昭、断固として中共に協力しなかった陳寅恪たちである。

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