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王紹光「大学の夢 期せずして実現(下)」1978

王紹光「大学夢、不期而至」『那三届 77,78,79级大学生的中国记忆』中国对外翻译出版有限公司2013年12月pp.9-19 2回に分けて訳出する。今回は後半pp.15-19まで。
 1978年2月28日、王は北京に到着して、夜、北京大学に到着する。果たして入学した北京大学は夢に描いた理想の場所だったかどうか。王が直面したのは研究能力はあっても、講義が下手な教員。情報が集まるのではなく、情報から閉ざされた大学。北京大学が夢に描いた大学でなかったのは文革の影響のためだろうか?あるいは大学というシステムが、そもそも彼のように10代後半で、社会に働きに出て職業経験を積み、かつ一人で膨大な知識を自らのものにした「学生」と対応していないのだろうか。
 訳者の私個人の考えは学校という画一的システムですべての学生を満足させることはできない、ということだ。学生一人一人が知的バックグラウンドが違い、知識の理解程度にも差がある。
 また1978年前半という時点も影響した可能性は高い。政治や法について、どう教えるか。北京大学法律系の教員の中で、開講前にどれほどの議論、意思統一ができていたろうか?欧米の法律や政治制度についての知識があっても、法治や民主について、触れることはまだむつかしい時代だったのではないか。結局は現状を肯定する議論、社会主義体制を前提にした法治を教えるしかなかったのではないか?それも原則を述べて、具体的事例を挙げることはできるだけ避けることになったであろう。相手は1年生である。それでいいと思ったのかもしれない。しかし実はこの1年生の多くは、文革により社会経験を積み、中国の社会制度の矛盾をまさに肌で実感してきた学生たちであった。むつかしいことだが、教員が社会制度との関係で自分の講義が抱える問題を告白すれば、教室の雰囲気は違ったかもしれない。
 やがて王は自分のペースで学習を始める。教師に頼らず、自分の生活を自ら組織し、自分で学ぶべきことを決めて進み始める。それは大学に進学する前に始めた「自修」をここで完成するということに他ならない。王はここで大学という空間の意味をみつけたのではないか?(訳者の私は、学生自身が自分に必要な学習テーマを発見するうえで、教師の役割は限定的だと思う。この王の「大学論」はその意味で共感できる。大学時代、今これでいいのか。迷いながら成長する。それでいいのではないか。教師や大学に疑問を呈してもよいが、最後は自分の責任で青春の時間を組み立てる。必要な知識を自分で発見する。それが大学という時間の意味ではないか。)
 王は1982年北京大学卒業後のコーネルでのSaga Seminar(1983-1989)について触れている。その経験をどう評価するかについて彼は述べていないが、様々な専門分野の人間との知的交流を王が楽しんだことは明らかだ。Saga Seminarに集まったのは、王と同じく、若い時、社会に出されて学校で学べずに、しかし知的営為を一人に続けた文革で青春を過ごした若者たち。再開された高考を突破。さらに米国留学に選抜されたさまざまな大学出身の若者たちが、言論の自由のあるアメリカ社会で、それぞれの知的関心を戦わせる瞬間がSaga Seminarだった。曲折はあったが、王はSaga Seminarで大学で学んだと思える瞬間に到達したように見える(訳者の私自身、大学を終えてから楽しいと感じたのは、何かを目的としない、肩肘はらない無数の研究会だった。)。
 筆者は1977年北京大学法律系に進学。その後、米コーネル大学で政治学博士。

p.15     大学進学は夢の実現ではなかった
 10日後、1978年2月28日午後3時、私は北京駅に到着した。この時、私はすでに24歳だった。
 北京大学への進学は大学の夢が円満に実現したことを意味したかどうか。記憶はしばしば頼りにならないので、ここでも第一学期の日記と書信からの引用で、この問題に答えることにする。
 2月28日:「夜、朱という姓の先生がやってきて、簡単に話した。彼によると、北京大学法律系の今年の入学者は60人、女性は13名。北京のほか、各省は2-3名のみ。法律系は全部で80余名の先生がいて、4年学ぶ。20余りの科目が開かれる。機密性の学問分野(絶密専業)に属しており(北京大学には今一つの機密性の学問分野:原子工程がある)、培養の目標は大学教員と研究人員である。」
 3月2日:「午後、入学教育が始まった。系の何人かの指導者と顔を合わせた。また同窓生たちと顔を合わせた。22の省市自治区から来ており、最も若い者は南京から来た17歳。もっとも年齢が高いものは30歳で、皆すでにいい年だった(都像半老头了)。数日経っての印象は、北京大学は決して理想の地でないことだった。運動、教育ともにまだ正常な道を歩んでいない。おそらく華工(訳注 武漢の華中理工大学 現在の華中科技大学を指すのではないか)に及ばない。実際のところ人を失望させるところがある。しかし北京大学の条件は良い。それに自分に頼るのだ!」
p.16 3月11日:「われわれはすでに講義に出席している。北京大学の名声はとても大きい。しかし我々を教える先生の講義は我々を引き付けない。当然、これらの先生方の業務水準はとても高いものだ。私は文化革命前の『政法研究』雑誌を広げたことがある。私が知っている名前の先生は、ほとんどすべて論文を発表されている。かれらは問題を研究できるが、しかし解説(讲解)はおそらくかなり劣る。」
 3月21日:「以前私は北京大学はきっと世論の中心で、様々な情報がすみやかにくる(灵通)と(誤って)思っていた。しかし北京大学にきてようやくわかったのは、北京大学は情報からもっとも閉ざされた場所だということだ。社会で大きな風が吹いても、北京大学にはいかなる波紋もおきない、何も変わらないのだ。完全なる死水だ。わたしの堤角(訳注 勤めていた武漢堤角中学を指す)での情報の行き来にも及ばない。・・・以前、北京大学や科学院はすべてまるで神秘の雲の塊のように考えていたが、今日見ると、なるほどそうであったか。私の迷信は壊れてしまった。」
 3月23日:「私は典拠を引用して注ぎ込むという教学を嫌悪する。大学の先生の水準は恐らくとても高いが、講義はそうではない、まったく死んでいるのだ(很死板)。」
 3月24日:「現在時間が過ぎるのがとても速い。瞬(まばた)きするともう1週間である。しかし1か月が過ぎても、なおいかなる収穫もなく、ばらばらで(松松散散)、脳の中もまたとても雑然としている、どうすればよいか分からない。」
 4月10日:「国家と法の課は長く聞いたが、心が震えることがない。教師が反復話す内容は、すべて社会発展史を学んだことですでに知っているものだ。かつ生き生きとした事例、生き生きとした言葉がない。要するに講義録を読むだけ、味わいは極端に乏しい。しかし私は聞かないことは敢えてせず、含まれている味を聞き出せないほど、自身が愚かに過ぎることを恐れ、大きな努力で聞き、考えたが、また疲れまた飽きた。恐らくは先生に不満をいだくべくではなく、私の理解力がなさすぎるのである。」(原注 第一学期は「党史」と「国家と法的理論」の二つの課だけが必修だった。)
 4月11日:「夜『唐代詩人杜甫』の講座がある。聞かないことはできない(訳注 聞きたいという意味ではなく、強制参加の意味ではないか。王は文学趣味で杜甫に関心があるのかと思ったが違っていた。)。晩飯を食べた後、人々はまた昨日の速度で(訳注 昨日も夜講座があったのだろう)講堂にむかった。その効果は昨日と同様で、開始から10分たらずで、満席の講堂はすき始めた。さらに10分過ぎたところで、私もまた外に出た。私は講堂を出て、星空のもと、瞬きしながら星々と新月を見た、黒い天幕上に輝いており、深く感動した、そして聞きたくもない講座を離れ、思わず未名湖畔に到り、湖の中に星々と月の明かりを見た。」
 4月13日:「教室の机の上には本当に多くの字が書かれている。これはすべて自己表現が好きな人が書いた、警句である。一行右に整った字で「君は北京大学の教室での学習を幸せだと思っていないのではないか?」。一行規律なく東に飛び出し西に歪んだ字で下のヘリに書かれている。「少しも不幸せじゃない。父が雪山を分け入り草地を超えている苦労を想えば。」私の現在の学習はちょうどよい(比較适应了)。ただし「国家と法の理論」に対しては全く興味をもてない。先生の講義はあまりにひどい(太糟),同窓生たちの不満の声が広がっている(怨声载道)。私は今学期は
p.17    英語に重点を置くことにした、2年の間に一般英文書刊を何とかよめるようになること。このほか、私は歴史と文学を少し学びたい。私はさらに高等数学の本を買った、何もない時に読む。内容は微積分、級数、算法用語(語言)とマトリクス(矩阵)など、とてもおもしろい。」
 4月28日:「夜XXX(クラスの中の一人の同窓生)と話してとても気が合った(很对劲)。彼も抱負がある人で、趣味の範囲もかなり広い、平俗でなく、男子の気概もある。我々の間で暗黙に一種の小さな組を作りたい、趣味や性格が近い人が集まって、互いの進歩を促す。私は考えるのだが、学習上の進歩を想うなら、小さなグループなしには不可能だ。当然明らかなことは、これは他人のグループを排斥するものではなく、自らの意思で作るもので、大きさの大小も排斥するものでもない。この種のグループの維持を図るのは利益ではなく興味である。この班の中にはできる人がいるべきで、我々は自らどんどん接近すべきだ。」
 5月12日:「『光明日報』が「実践は真理を点検(検験)する唯一の基準(標準)である」を発表、いかなる理論もすべて「実践」の点検を受けねばならないと提起した、当然、マルクスレーニン主義も毛沢東思想もいかなる例外もない。これこそ伝えられていた新たな情報である。事実上、教条主義を打ち破らないこと、百家争鳴、百花斉放は空話、終わった話である。現在理論工作者は「理論禁区」で首を撫でているが、このうえなく気の毒なことだ。この特約評論篇の文章は恐らく(理論工作者の)命を救うことができる。」
 5月17日:「この2ケ月を回想したが、およそ収穫はなかった。学んだことはすべて以前に知っていたことだ。印象を深めたこともなかった。先生が旋回するのに付き合って疲れ、学習上は無計画、乱読し、多くの時間を使ったが、進展は多くなかった。今後は学習範囲を縮小し、広く深く結合するようにしよう。外国語は必ず良くまなぶべきだ。」
 5月28日:「私は顾颉刚(訳注 グウ・チエカン 1893-1980   中国の歴史学者 民俗学の創始者のひとりとされる)の方法を学ぶべきである、大学に入って初めに比較的大きな研究課題を立てて、4年の間に不断に資料を蓄積、卒業時にはどのような成績もだせるはずだ。」
 5月30日:授業の試験の前にXXX(前に名前を挙げたあの同窓生)と草地の上で数日話した。彼はこのことをすべて考えた、試験は其れなりに満足出来れる点が取れれば良い、肝心なのは自身が掌握した知識の程度であると。」
    6月12日:「我々の「国家と法の理論」の講義方式は支持しがたい(太够呛)、問題を講じて事実を分析しない、現状を分析しない、ただ言葉を引用し、論理を進める、概念推理のゲームを進める。もしすべてが論理で解決できるなら、世界を認識することはとても簡単になる。」
 7月7日:「夜、組織生活は人々に一学期の仕事と学習について総括を求めた。私には、貴重な大学学習の8分の1が過ぎたが、ほとんど何も収穫がないという感覚があるのみである。
 7月12日:「明日は党史の試験がある。今日の夜は多くの人が路上の灯火の下、夜を過ごしている。
p.18    私一人趣きを異にし、皆が忙しくするなか一人なにをするでもなく、さっそく早々と床についた。話せば奇怪に思われようが、試験前になって心は却って落ち着き、とても平静になった。神様(上帝)の保護援助で私は再試を受けることはない。私は満足していた。」
 7月21日:「午後、「国家と法の理論」の試験。午前中に至っても、私は全く復習しなかった。雑誌閲覧室で1957年の映画雑誌を借りて、大きな興味をもって映画の脚本『但丁街凶杀案』を読んだ。試験が終わり、すべてが終わった。同窓生たちが借りた《創業》の中で周挺杉が言う「私のまとめた感覚はこうだ、開放された!」
 7月23日:「(休暇入り)9時半、我々は出発した、北大さらば!」
 (以上から)とても明らかなことは、中国の”最高学府”に進学したことは私の大学の夢を完全に実現することでは全くなかった、おそらく大学の夢はただ自修を完成することでのみ完成するのだ。

 1982年北京大学卒業後、私は米国コーネル大学に留学した。コーネルで私は多くの新たな友と知り合った。その多くは北京大学の校友だったが、さらに多くの人が国内の他の大学から来ていた。我々はいつも校内のSaga Hallで歓談した。やがて週末の会合は定期化した。そこで我々は週末の集会をSaga Seminarと称する正式の制度にした。Sagaは聖賢という意味。Saga Seminarは「聖賢会」あるいは「神仙会」という意味で、この名称を私たちはとても気に入った(好不得意)。1983年から1989年まで”神仙会”は毎週1回、ほとんど休みなく続いた。通常は毎週数名のメインスピーカーがいて、論題は国際関係、経済、社会、法律、歴史、文学、演劇、心理、環境、建築、農業、数学、生物化学、物理、天文・・・限定はなかった、スピーカーに唯一求められることは、専門外の人が聞いて理解できるように話すということだった。少し時間を空けてから、我々はテーマを決めないで討論した。この談話の焦点は一般には時事政治に集中した。もしコーネルで受けた訓練で、私のその後の研究工作に役立っているものは何かと言われれば、「神仙会」はその中の重要な一つである。
 今日の学生は77,78,79級を見て神秘を感じるかもしれない。もしこの三届の学生と後の各届の学生とが同じ考試に参加したとして、前者が必ず勝つわけではない。77,78,79級はもう一度再現できないのは、合格率の低さが重要な原因の一つである。統計によればこの3年の合格率は,4.8%,6.6%,6.1%である。1949年以後のその他の年、また明代の科考、郷試、会試、殿試そして庶吉士考試の合格率より低い。しかし77,78,79級が再現できないもう一つの原因はおそらくより重要である。彼らの絶対多数はかつて皆「風雨に打たれる様々な経験を経て(经风雨,见世面)」、
p.19  社会を経て「大学」に至ったこと、農村、工場、軍営で鍛錬(磨砺)を受けたこと。苦しい環境の中で、彼らは「紙上で得られたことは浅く感じられ、唯一の知識は自ら行うことが必要だ」を既に経験し、また必ず「博学、審問、慎思,明办,笃行」に到らねばならないと認識した。彼らは教室の外で本当の意義での広範な教育,広渉古今、中外、文理を学んだ。彼らは督促してくれる先生がいない環境で光明を惜しんで学び、努力した。そうであるので大学に入った後、彼らはマーク・トウェイン(马克吐温)が言うように、「私は学校に私の教育を妨げさせない」ことができた、その後の生涯で、かれらは「言語行動を重視し、成功を収めること(博观而约取,厚积而薄发)」ができた。
 中国の77,78.79級は再現できないが、自身の大学を夢を実現するために、あとに続く人々はこの三届の人々の経歴から教育の奥技を引き出せるかなお試していないところである。

                   2013年1月9日水曜日
                   香港吐露湾 


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