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外交政策をめぐる毛沢東と張聞天 1959

  張聞天(1900-1976)は毛沢東の前の中国共産党総書記(1935-1943)。第二次大戦後、新中国でソ連大使(1951-1954)を務めたほか、各種国際会議に中国代表として出席。1955年1月からは外交部常務副部長。しかし廬山会議(1959)で、毛沢東の経済政策を批判したことで失脚し、文革でも激しい攻撃を受けた。逝去後の1979年に名誉回復された。毛沢東から批判を受けた論点として、外交政策をめぐる問題がある。これを論じた本として以下がある。
    蕭揚《張聞天與中國外交》中和出版2012年
 著者は、張がソ連大使のときに張の秘書になった人物。期待して読んだが、本書の内容は常識的で平板である。その出だしの「外交で世界革命はしない(外交不搞世界革命)」pp.23-37をまとめておくが、おどろくようなことが書かれていないのが少し残念。

 1953年3月5日のスターリンの死去後、ソ連の新指導部は、中国に対して朝鮮戦争の即時停戦を提案。中国もこれに応じて7月、朝鮮戦争停戦が実現した。国内の文化経済建設を急ぎたい中国にとって、朝鮮戦争が大きな経済負担だったことは否めない。
 このあと中国は一時的に和平外交を展開する。
 1954年4月インドとの間で和平協議がまとまり、6月には両国総理の共同声明が発表されている。
 1954年6月そして11月には、英国そしてオランダとの間で相互に外交代表を置くなど、西欧諸国との関係は改善。日本とも民間貿易での交流が進んだ。しかしこの展開は毛沢東の思想とは合わないところがあった。そこで1956-57年と、中国の外交は変化してゆく。
 毛沢東は外交は革命に従うべきであると考え、したがって外交政策は世界革命を支持するもので、資本主義国家ではその共産党を支援し、植民地では独立運動を支持し、国際労働運動を支持するものだと考えていた。1957年に彼が述べたところでは、「東風が西風を圧倒している」(社会主義的力量が帝国主義的力量に圧倒的優勢である)「帝国主義は張り子の虎(紙老虎)である」。こうした考え方から、マレーシアの共産党の反政府武装闘争を支持したり、米国政府との関係を発展させない、などの彼の態度が生まれた。
 こうした毛沢東の考え方は、一時的に和平時期があるとしても、戦争は結局避けがたく、現在は世界革命の時代にあるとの認識をベースにしていた。先進国においても、途上国においても、マルクスレーニン主義政党など左翼勢力を支援し、革命を輸出するというのが毛の考えだった 蕭揚はしている。
 これに対して張聞天は、現在はすでに世界革命の時代ではなく、各国の共産党も政権を奪取する形勢にはないと認識していた。そこで中国外交の任務は、革命の輸出ではなく、中国での建設を支援し、各国とは平和共存を図ることにあると考えたとする。そのため張聞天は西欧国家との交流に積極的で、国家の発展というものは完全に閉じこもっていてはできない主張したと 蕭揚は述べている。
新中国建国以後中国経済史

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