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細金正人「兜町の四十年」1990

 中公新書である。著者の細金さん(1927-)は東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。編集局証券部長などを経験され、1987年にすでに退社されている。本書では記者として証券界の盛衰を見てこられたお話がはいっている。以下は1965年恐慌のところまでのメモ書きである(成城大学構内にてドクダミの群生)。
 なお私は、あまり授業で証券取引の歴史を話さなくなった。歴史を話し始めると、それだけで時間がかなり必要で話すべき現代の制度や理屈の部分を話す時間が不足するからだ。しかし歴史も大事であり、悩ましいところだ。(なお日本の証券市場史の本は実はたくさんある。本書の次には有沢広巳監修「証券百年史」日本経済新聞社1978年を推奨したい。)

 本書の出だしは戦局激化による立会停止(1945年8月10日)を受けた敗戦直後。戦後の急速な経済の回復の要因として、官僚制度がほぼ無傷で残り、民間企業も再建に努力し、若者への教育水準の普及が欧米に匹敵するものがあった、の3点を挙げている。
 そして市場の歴史としては、集団売買の黙認(1945年12月~)。モラトリアム(金融緊急措置令施行 1946年2月17日)。財閥解体指令(1946年11月)。証券民主化運動の開始(1947年12月)。株式会社から会員組織の取引所への切り替え。取引三原則の提示(1949年4月20日 清算取引の廃止)。取引所の立会再開(1949年5月16日)を順に挙げている。 
 その後は、米国の対日政策の転換。朝鮮戦争(1950年7月発生)による特需景気(1950年)。増資ラッシュ(1950年から1951年)。証券投資信託法(1951年6月4日制定公布 無記名式で人気をえる。産業資金供給の大義と脱絶助長懸念)。1953年3月5日(スターリン暴落 スターリン重態に陥ったとのニュースで軍需株中心に大暴落)。投信の挫折(1953年12月26日 元本割れの危機 償還期限の1年延長を決定 償還期限が2年と短かったことが一因)を述べている。
 信用取引の開始(1951年6月1日)。不況(1954年)。この間、繰り返し清算取引再開論(清算取引は第二次大戦前は一般的だった)が起きたこと。しかし1951年7月30日、(復活は業界の近代化に反すると考えた)日興証券の遠山元一は私の屍を超えていけと、強硬な反対演説。また1954年、一万田(いちまた)大蔵大臣は、大蔵省を代表して、証券取引法第65条の白紙還元により社債引き受け業務の証券独占見直しを示し、強硬に抵抗したとのこと。 
 1958年7月から岩戸景気始まる。1960年11月、所得倍増計画構想発表。1960年12月、公社債投信募集開始。1961年10月、第二部市場発足(店頭銘柄の格上げ)。1961年後半、金融引き締め契機に東証一部株価急落。反対に二部市場は過熱。二部は1962年9月まで株価上昇。1962年秋、大蔵省が金融機関に買い出動要請。
 1963年ダブルショック。運用預かりを純資産の3倍(できれば2倍)を限度とする証券会社に対する坂野通達(背景 当時の証券界担保力、資金力低い。)。ケネディ大統領による利子平衡税(背景 米:対外援助+輸出力低下のもとでドルの力の低下 対外投融資規制)。なお、株価が崩れた背景に巨額の増資(1961-64年で2兆2000億円)。設備投資→生産能力過剰。
  1964年1月 日本共同証券発足(主要銀行14行+四大証券で資本金25億円)。背景←証券界の警戒 日銀の援助に期待(実際に日本証券金融を通じて日銀資金が融通された)。1200円防衛。1965年1月保有組合誕生と入れ替わる。
 1965年5月21日金曜日朝、西日本新聞が山一証券で書く。24日から取り付け拡大。28日夜日銀氷川寮に関係者集まる。日銀による特別融資を決定。その後、株価下落、投信解約なお続く。
    1965年6月3日 大蔵大臣は田中角栄から福田赳夫に。6月13日、公債発行に前向き発言。6月27日不況対策が正式に発表。この発表を境に株価上昇に転じる。12月2日2年ぶりに1400円台回復。市況好転により、日本共同証券と日本証券保有組合は保有株放出に転じる。
 1965年恐慌を契機に免許制(1968年)、監督行政強化。

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