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鄭永年 清廉な政府の建設 2012/2014

 ここで紹介するのは鄭永年(1962-)の以下の文章である。この人は華南理工大学榮譽教授、シンガポール国立大学東アジア研究所長。
 鄭永年《建設清廉政府:如何有效反腐敗》載《關鍵時刻》東方出版社·2014年148-174(なお華南理工大学公共政策研究院《政策研究専題》2012年12月号からの転載である)。以下は要約である。
 十八大で習近平により反腐敗が大きく掲げられた。この論文は、民主化の欠如(具体的には三権分立による権力の分散、法治により腐敗に法律的制裁があり、司法の独立が法の執行を保障する、透明な政治、官員への陽光も腐敗防止に役立つ、などが欠けていること)を腐敗の原因の一つとする考え方を紹介したうえで、しかし民主政治は必ず清廉な政府をもたらすわけではないとしている(p.152-153)。前提になるのは、民主主義の担い手の登場を可能にする社会経済の発展水準、そして法律など基本国家制度、だとしている(p.153-154)。
  この説明は、民主化の前提条件としての社会経済水準の向上、法律の整備を主張しているように見える。
   その次に経済改革も清廉政府を作ることに重要だとして、以下のように説明するー民主化の前に私有財産権の確立があったと。この説明も、民主化(政治改革)と私有財産権の確立(経済改革)とが相互に平行するのではなく、経済改革の先行すべきことを主張しているように読める。しかし私有財産権の確立は、法律によって議会によってつまり政治によって承認されて確立するのであるから(そこまで深読みすれば)、経済改革と政治改革が実は一体であることを、著者は主張しているようにも読める。多義的に解釈できる文章であるが、取り扱いがむつかしい問題をそれでもあえて論じるのは勇気を示すものかもしれない。

p.156   それでは経済改革はいかにして政府を清廉にすることができるか?我々は以下
p.157    具体的な制度の詳細を理解できる。もっとも重要なことは政治と経済の分離の実現である。経済と政治の間に境界を設ける(建設する)ことである。もちろんいかなる制度のもとでも、政府と経済の分離は清廉な政府のの一つの重要な制度条件である。もしこの境界がなければ、政府は気ままに経済資源を動員(動用)し、腐敗はたちまち避けがたいであろう。まさにこの意義の上に、西欧社会は民主化の前に「私有財産」制度を確立した。私有財産権制度は商業階層(あるいは資産階層)と君主貴族つまり統治者との間の一種の契約である。私有財産の保護が無ければ、君主貴族は気ままに資産者の資産を動員できる。これが腐敗である。当然我々は「私有財産権」に対して、機械的にあるいは意識形態方面の理解をするべきではない(ここはよくわからなかった。「私有財産権」が確立すれば、腐敗がなくなるわけではない、ということであろうか。原文は以下の通り。當然我們不應當對“私有產權”做過于機械或者意識形態方面的理解。)。「私有財産権」は民主政治と同じく、ある所では清廉な政府の前提である。しかしべつのところでは、たとえ「私有財産」が存在しても清廉な政府は出現しない。ここでは経済と政治の境界が正に重要(關鍵)である。すなわち、私有財産権はただ経済と政治の境界を確立する方法の一種で、その他の方法も存在する。
 その次は予算制度の確立である。経済と政治には境界があることは、政府の活動(運作)は「取之于民(訳注 この言葉は上の句で、全体は、取之于民用之于民。その意味は民から取る物は少なく、民に用いる物は多く。清廉な政府の例えとされる。)」でなければならないことを表明している。政府自身は生産者でない、ならばその活動が必要とする経済資源はただ社会からくることができるだけである。であれば、社会はいかに政府が社会からみだりに資源を吸収しないようにできるか?それは予算制度である。経験的にみて、あらゆる清廉な政府は皆透明な予算制度を持っている。予算制度は一種の数量化管理だと言える。この重要性は多く言うを要しない。
 無論、経済と政治の間の境界あるいは予算制度、この二つの最も重要な制度は中国でなお極めて初歩段階にある。経済と政治の間にはなお境界がない。計画経済時代、政治と経済は一体化していた。改革開放以来、一つの改革の目標はまさに「政企分開」であった。(以下略)


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