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馬寅初の北京大学校長就任 1951/05

馬玉淳《馬寅初的故事》浙江古籍出版社2006年,  pp.167-169 中国の大学を代表するとされた北京大学校長になった馬寅初(写真は礫川公園)。しかし就任した彼は、大学の方向付けは党中央が決めることであると断言する。こうした党の指導に従う態度はその後も繰り返される。こうした言動はどこまで本心だったのだろうか。疑問として残るのは、教育の専門家として経済学者として、党中央の指導と違う判断がでることはないのかということである。判断というのは、誰もが間違える。一連の馬寅初の控え目な発言は、誰もが間違えることを知っている知識人らしくないように見える。たとえば、林昭(1931-1968)の事件は、馬寅初が校長していたときのこと。そして馬寅初が校長していたとき北京大学で起きた問題と、彼の役割は十分検証されていない。また馬寅初は校長として、大学の教育・研究をどのように守り発展させたのだろうか。政治上の問題についての判断をすべて、党の側に委ねるという馬寅初の姿勢は正しかったのだろうか。この文章の最後に諍友という言い方がでてくる。問題は諍友として直言して、党がうけいれてくれるかどうか。指導を受け入れる側がそもそも諍友になれるのかどうか。
 なお手元の資料では、《文革風暴中的九位大學校長》は馬寅初が実際には権力がなく学内の党委員会によって発言を抑えられていたとする。それでも江隆基が副校長の間は、矛盾は抑えられていたが、副校長が江隆基から陸平に代わって(1957年10月)からは、馬寅初と党を代表する副校長との矛盾は高まったとする。(参照 汪春劼《文革風暴中的九位大學校長》新銳文創2016年における陸平、江隆基に関する記述、とくにpp.121-122)

馬玉淳《馬寅初的故事》浙江古籍出版社2006年,  pp.167-169 抄訳
 p.167   1951年5月、(党)中央は当時、浙江大学校長だった馬寅初を北京大学校長に移動任命(調任)した。三十五年前、彼は強国富民と中華民族のため経済建設の人材を育成(培養)する広大な理想を胸に、北京大学の講台に上がった。三十五年後、彼はまた歴史が与えた神聖な使命を背負い、科学教育と国の振興のため新たな努力を行った。
 北京大学は彼に取り縁がとても深いところで、紅楼に入るとき感慨はひとしおだった。
 6月1日、太陽は昇り(艷陽高照)花は咲きほこり(鮮花怒放)旗は翻り(彩旗飄揚)ドラが一斉にならされる(鑼鼓齊鳴)。北大民主広場は祭日の雰囲気を呈した。数千名の教師学生がそこに集い、馬寅初の校長就任を歓迎した。馬寅初は満面の笑顔で講台に上がり、感情を高ぶらせて述べた。「北京大学は私の実家(娘家)で、実家に戻り紅楼を見て、心の中は言葉にならないほどの感激でいっぱいです(我心中有説不出的感情)。北京大学はやはり北京大学で、北大青年はやはり北大青年です!」
 続けて彼はすぐに彼の就任(就職)演説を開始した。彼は言った。「みなさんは(同學們)あるいは私の開学の方針(建校方針)を聞かねばと思っておられることでしょう。この点で何人かの同学の方を大いに失望させるかもしれません。私は開学の方針は中央が定めるものと考えています。一大学校長はただ工作任務をもつだけで、開学の方針はもちません。一校長は中央の政策を執行すべきで、中央の方針貫徹を推進すべきものです。(太字は訳者によるもの 以下同じ)
 
「私は教師学生全体がすべて一致団結の精神で、北大の光栄ある革命の伝統を発揚し、学術の地位を保つこと、併せて国家建設工作の発展を分担(配合)し、国家のため大量の人材を造り出すことを希望します。」
    馬寅初は言う。「時代をはっきりと認識すべきです。中国はすでに一本の新しい道を歩んでいます。我々はただ前進できるだけで後退できないのです。もし(倘若)とどまって動かなければ(固步自封),追い上げの時代を認めなければ、必ず落後し、淘汰されかねないのです。」
 北大のため、党と国家が与えた任務をさらによく完成するために、馬寅初は中央に、彼とともに一緒に仕事をする党員幹部が一人必要だと提起した。1952年、著名な教育家で優秀な共産党員であり、延安大学校長であった江隆基が北大に移動して、北大副校長を担任、
p.168   のちには党委員会書記を兼任した。
   江隆基は、若い時、北大で聴講(旁聽)し、馬とは子弟の間柄、二人は対面し、一見して打ち解けた(一見如故)。江隆基は改まって(誠懇地)馬寅初に言った。「馬校長、若い時、私は北大を聴講したことがあり、あなたは私の先生で、私はあなたの学生、助手です。私は当然(一定)あなたの指導下で、あなたを補佐します。」
 彼が話し終わるのを待たず、馬寅初は彼を遮って言った。「いやいや。政治上はあなたが私を指導し、業務上は私がたくさん細かなことをする。我々は誠心誠意団結して、ともに北大のことをうまく進めましょう。」
 一校長として馬寅初は、浙江大学あるいは北京大学のいずれでも、党政関係との協調にとても注意した。馬寅初は学校党委員会の指導と一貫して協力(合作)がとても上手だった。彼は党員指導幹部の意見をとても尊重した、胸襟を開いて(襟懷坦蕩)ところどころに胸の中が深い山谷であるかのような(虛懷若谷的)謙遜美徳を表しながら。
 彼が北大で仕事をしている間、党と政治は共同して十分暗黙の了解により、北大の各方面の発展は十分迅速であった。
 1957年、ある人が共産党の整風を利用して、党委員会は役目を終える(下臺)べきで、大学(高校)は教授が治めるべき、(そして)校務委員会を回復するべきだとの右派言論を大量に散布した。馬寅初は北大の事実に基づき、厳しく反駁を加えた。「北大には8000の正規生がいる。この8000名の正規生の思想、家庭情況について、党委員会はこれをすべて知っている。もし党委員会が退出すれば、私には理解(了解)する方法がない、わたしに校長せよとなったとして、私も
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 彼はさらに言う。「北京大学の教授は共産党と距離が近い(靠近共產黨的)。というのは彼らは皆その目で共産党の良いところを見たからである。共産党が彼らに近づきさえすれば、彼らは喜んで党に協力する。」
 馬寅初は解放前の北京大学の情況を回顧する。「私は北京大学で13年教えた。そのとき先生の講義にはシュラバス(大綱)がなく計画がなかった。一年の教えるべきこと(功課)が話終えていないとして誰も質問しない、試験にはいくつかの問題が出されるが誰も試験監督にこない、学生が本を開けて試験を受けるのと変わらない。現在は変わった。教育改革が基本完成し、教学計画、教学大綱がある。これはみな党委員会の良いところだ。現在、校務委員会を回復すればよいという人がいる。この校務委員会は過去にはあったがうまく機能しなかった(弄得不好)。院長と院長が予算で意見がぶつかり、ついには話をしなくなった。清華大学校務委員会はうまく運営されていたと考えているとのことだが、かつて清華で教えて今北京大学にいる何人かの教授によれば,過去、清華大学の校務委員会はボスたちの(把頭)委員会で、私たちは苦労しました、なんでまたそうするのですか?」過去と比べ現在を見て、馬寅初が出した結論は「党委員会制度はともかく学校からなくせない(不能退出學校)」というものだった。
 馬寅初は国民党の反動統治に反対する闘争のなかで次第に中国共産党に近づき、自身でのべているように、1939年からは一時も共産党から離れなかった。数十年来の苦難を共にし、肝胆相照らす(真心が通じる)なかであり、中国共産党の得難い、真摯な諍友(直言して諫める友)となった。

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