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John Maynard Keynes 1883-1946 (1)ケインズそしてケインズ派経済学

ケインズ派・ケインズ派経済学とは
 ケインズ派経済学Keynesian Economicsは、自由な市場が自動的に完全雇用を達成するという市場メカニズムを以下の2点で否定します。
 一つは労働賃金の下方硬直性downward rigidityです。ケインズは労働者の抵抗を上げました。そのため名目賃金が下方硬直的だとするのです。だとすると、賃金が下がることによって、失業者が減ってゆくというメカニズムが成り立たないことになります。また現代では最低賃金について、政府が規制しています。さらに、企業自身が労働生産性の低下を恐れて賃金引下げに消極的かもしれませんし、物価が下がる場合には、名目賃金がそのままでも実質賃金が上昇することさえ、起こり得ます。
 またもう一つは「流動性のわなliquidity trap」と呼ばれる現象です。金利がさがると、貨幣(=流動性)の投機的需要は増加します。金利が下がれば債券価格が下がりますので、債券保有は回避され人々は貨幣を持とうとします。そのため貨幣需要が拡大し(このような需要を投機的貨幣需要といいます)、利子率の低下を食い止めてしまいます。こちらでは利子率の低下により、生産投資が回復するというメカニズムが損なわれることになります。
  これらの認識を背景に、ケインズ派は、経済の調整、完全雇用と物価の安定を目標に、政府が市場に介入することを積極的に肯定します。これはケインズ派以前の経済学が、市場の自動調節作用を信じていたのとは大きく異なっています。ケインズ派においては政府は、家計や企業とともに、総需要を構成する大きな柱として認識されて、たとえば、失業問題に対しては、政府が労働集約的な公共事業などを実施することで、均衡財政にこだわらず積極的にその解決に関与することを肯定されることになります。

ケインズ
 By David R. Henderson
Cited from Econlib.org

 20世紀の中葉においてJohn Maynard Keynesはとても影響力がある。現代思想のすべての学派に彼は影響している。その考え方の多くは革命的だった。ほとんどすべてが論争的だった。ケインズ経済学は彼のあとのすべての経済学者を測る一種の物差しのようなものだ。
 ケインズはCambridgeに生まれ、CambridgeのKing’s Collegeに学んだ。そこで彼は1905年に数学で学位をえた。彼はそこに1年とどまって、アルフレッド・マーシャルとピグーのもとで学んだ。(その時の)貨幣数量説についての奨学金は、多年あとの『貨幣改革小論Tract on Monetary Reform』につながった。Cambridgeを離れた彼は、公務のポストを得た。そこで彼は、彼の経済学についての最初の本『インドの通貨と財政』の材料を集めた。同書の中で彼は、インドの貨幣制度の働きを叙述した。彼は1908年にCambridgeに講師として戻った。それから休暇を取り、英国財務省で働いた。彼は官僚組織の中ですぐに昇進し、1919年にはヴェルサイユ講和会議で財務省の主席代表を務めた。(しかし)彼はヴェルサイユ講和条約がドイツ国民にとり過度の負担と考えて代表を辞任した。
 辞任のあと、ケインズはCambridgeに戻り教職を再開した。傑出したジャーナリスト、演説者であるケインズは著名なBloomsbury Groupに属した偉大な文人(そこにはVirginia WoolfやBertrand Russelが含まれる)の一人だった。IMFが設立された1944年のBretton Woods会議でケインズは、(第二次大)戦後の固定為替相場制度の建設者の一人だった。1925年に彼はロシアのダンサーLydia Lopokovaと結婚した。1942年に貴族になった。(そして)1946年4月21日に亡くなった。その時、彼の父John Neville Keynesもまた著名な経済学者であるが、まだ存命中だった。
 ケインズは今世紀の最も尊敬される経済学者になる前に、(すでに)1919年に影響力のある本『講和の経済的帰結』(訳注 The Economic Consequences of the Peace, Nov.1919)を出版したことで有名だった。彼は、同盟国が第一次大戦後ドイツに対し懲罰的賠償支払いを課すことに反対する目的で本書を書いた。彼は書いたー同盟国の請求額は大きすぎ、ドイツはそれを支払おうとして永続的に貧しくなり、それゆえ政治的に不安定になる、と。我々は今彼が正しかったことを知っている。復興についての傑出した経済分析に加えて、ケインズの本書は、4人会議(フランスのGeorges Clemenceau, イギリスの首相David Lloyd George, 合衆国大統領のWoodrow Wilson, そしてイタリアのVittorio Orlando)の内側に立ち入った分析を含んでいる。ケインズは書いたー4人会議は(ドイツとオーストロ・ハンガリーを良き隣人にするという問題を含む)こうした諸問題を全く考慮しなかった、ほかのことで頭がいっぱいだったークレマンソーは彼の敵の経済生命を壊すこと(だけ)を考え、ロイド・ジョージは取引をして何か成果を持ち帰ろうとしていた、それは一週間集まることを回避することになり、大統領は正確でもなく正しくもないことを何もしなかった。
 1920年代ケインズは(今日マネタリズムと呼ばれている)貨幣数量説の信者だった。彼がその話題(topic)について書いたものは、基本的に彼の精神的指導者mentorsであるマーシャルとピグーから彼が学んだ原則に基づいていた。1923年に彼は『貨幣改革小論』を書いた。その後、彼は『貨幣論Treatise on Money』を書いた。両者はともに貨幣政策に関するものだった。その主たる政策上の見解は、経済を安定させる道は価格水準の安定にある。そしてそのために政府の中央銀行は、物価が上昇傾向にあるときには利子率を下げねばならない。また物価が下落傾向にあるときには、利子率を引き上げねばならない(訳注 これは明らかに書き間違い。物価が上昇傾向にあるときは利子率を上げ、逆に下落傾向にあるときには利子率を下げる、が正しい。)。
 ケインズの考え方はしかし英国の失業率が戦間期に20%の高さまで押し上げられると劇的に変化した。ケインズは英国の経済困難のそのほかの原因を調査した。『雇用、利子そして貨幣の一般理論』(訳注 The General Theory of Employment, Interest, and Money, Feb.1936  なお序文はDec.1935)はその結果だった。
 ケインズの一般理論は経済学についての経済学者の考え方を徹底的に変化させた。それはいくつかの点で切り替えを意味した。とくに、消費、投資、政府支出の合計としての総需要の概念を導入したこと、また、完全雇用は政府支出の支援を伴ってのみ維持されうることを示した(示そうとした)ことにおいて。経済学者は(現在でも)依然としてケインズが高失業の原因として何を考えたかについて論争している。ある者は、ケインズは賃金の低下に時間がかかると考えていたとしている。実際にはケインズは賃金の下落を望んでいなかったし、実際『一般理論』では賃金の安定を推奨している。彼は論じているー賃金の一般的削減は、所得、消費そして総需要を減少させるだろう、(総需要の減少は)労働の低い価格がもたらすいかなる便益をも相殺するだろう、と。
 ケインズは考えたーなぜ政府はビジネスの靴を、公共工事に投資をし失業者を雇うことで満たさないのか、と。『一般理論』は完全雇用を維持するため、経済不況の時の赤字支出を鼓吹した。ケインズの結論は当初反対にあった。当時均衡財政は政府の標準的慣行だった。しかしケインズの考え方は間もなくしっかりと把握された。そして合衆国政府は公共工事で人々を仕事に戻した。もちろん政策担当者は一度赤字支出を覚えると、それを手放さなかった。
 ケインズの批判者の断言とは異なり、ケインズは比較的強力な自由市場の鼓吹者だった。「自己利益が何が生産されるか、生産要素がどのような比率で組み合わされるか、そして最終生産物の価値がいかに分配されるかを決定する、(このような)やり方の古典的分析にいかなる異議もだされるべきでない」と言ったのは、アダム・スミスでなくケインズである。ケインズは一度、財政政策手段で完全雇用が達成されれば、(その後は)市場メカニズムは自由に機能できると信じていた。「こうして」とケインズは続ける、「消費性向と投資誘因との調整をもたらす、中央統制の必要を離れると、経済生活をかつてそうであった以上に社会化するsocialiseいかなる理由もない」(一般理論p.379)
    現代経済理論にケインズの元の仕事はほとんど生き残っていない。彼の考え方は常に改定され、拡張され、批判されてきた。今日のケインズ経済学は、その大元は『一般理論』にあるのだが、John Hicks, James Tobin, Paul Samuelson, Alan Blinder, Robert Solow, William Nordhaus, Charles Schultze, Walter Heller, Arthur Okunを含むその後の経済学者による仕事の成果に主として依っている。計量経済学の研究が生み出された、その大きな理由は、ケインズのマクロ経済モデルを経験的に説明することにあった。ケインズが多くの傑出した経済学者の(知的)源泉であることは、彼の思考の深さと影響力を証明している。


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