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中共中央の武装暴動方針と陳独秀の経済闘争主義 1927年

以下は任建樹『陳独秀與近代中國』上海人民出版社·2016年pp.160-161の翻訳

p.160 1929年11月15日、中国共産党の創設者のひとりで、五届中央書記を務めさえした陳独秀は、党籍を除かれ離党させられた。この以前、彼と中共中央は中国革命問題について広範でまた激烈な争論を行った。この論文(本文)はこの論争の主要問題そして陳独秀と中央の主要な分岐について整理(梳理)しようというもの。併せて若干の意見をのべたい。

1927年末の3通の書簡

 大革命失敗後、中共中央は国際インターナショナルの指導のもと、漢口で八七会議(1927年8月7日)を開き、土地革命と武装暴動の総方針を確定した。当時陳独秀は武漢にあって、(党は)彼を会議へ出席をさせなかった。会議は彼の名前を挙げて彼が右傾機会主義の誤りを犯したことが、革命が失敗した原因の一つだとした。
 党員が党組織に批評を受けた時、もし考え方(思想)が理解されないということなら、心の中は穏やかでなく(鬱悶)気持ちは落ち込むが、しかし全体のためには自分をまげて(委曲求全),自身の言動を点検し抑えて(收斂)党の決定(決議)に従うものだ。陳独秀は、自身の誤りと受けた批判に対して、通常(尋常)とは異なる態度をとった(持有)。彼はすでに軽々しく誤りを認めなかったが、同様に(批判を)簡単に拒絶することもなかった。一歩踏み込んで右傾機会主義が生まれる根本的な理由を追究した。誰がそれを唱道(作俑)したのか。誰に主要な責任があるのか。陳独秀という人は、性格(秉性)は堅固(剛强)で心の中は純粋であるので(心懷坦蕩)、意見があると腹の中に収めて発しないでいるとことはできなかった、彼は「革命そして党が危機にあるのを見て」ほかの人が彼を「機会主義者」だというのを一切気にかけずに、1927年11月と、12月13日まで、中共中央に対して連続して三通の封書を書いて、自身の提案(建議)を提出した。
 三通の封書を総合するとその内容は主要には以下四点であった。(1)「国民党は永久に統治が堅固であることはできないが、眼前なお崩壊に至らない」;(2)それゆえに「工農運動は経済闘争をまず重視(偏重)するべきであり」「暴動は用いるべきではなく、暴動を目的にはできない。「暴動による政権を得る」幻想は今やありえない。」;(3)農民群集を奮起させるp.161   四つのしないぞスローガンを提起する。ー税金として穀物を納めない(不繳租)、税金として金銭を払わない(不完糧),供出をしない(不納捐)、返済をしない(不還債);(4)中央に「工農政府」「ソビエト政府」といったスローガンを「工農平民代表会議政府」に変えることが適切だと提案する。
 中共中央は陳独秀これらの建議に対して2つの封書のなかで一点ごとに返答している。(1) 国民党は上から下まで派閥が林立しており、矛盾は大変重い。「どの一派閥も堅固に統治できない。」;(2) 暴動は「唯一の方針である」;(3) 現段階の農民群集の闘争は「すでに経済と政治とを分解できないところの」(ものである);冒頭の中で最も切迫するのは「農民群集が得た政権(ソビエト)の問題」であった。
 以上の二種類の意見は明らかに原則性の分岐を示している。陳独秀は八七会議が制定した方針に同意していない。中央は方針を堅持した(堅持不渝)。しかしこの時、双方はともに平静に自身の意見を提出し、中央は陳独秀の手紙を受け取り「とてもうれしい(非常之欣慰)」とし彼のいくつかの意見に「同意」すら示した。しかし双方の意見の分岐は、形勢の予測から革命の基本方針などすべての局面に及んでいた。それゆえ彼らの間の論争は開始されるや、対抗的となる要素を伏在させていた。一定条件のもと、公開された、解消されない対立に発展するものであった。
 陳独秀が中央に三通の封書を書き送ったときはまさにソ連共産党内部の派閥闘争が日増しに激化したときであった。1927年11月14日、ソ連共産党はトロッキーを離党させた(開出了黨籍)。1928年1月17日トロッキー氏は放逐され、1年後には出国させられた。ソ連共産党内部の派閥闘争は、革命と反革命の闘争に格上げ(上升)され、多くの老ボリシェビキを等しく有罪とし(株連)、国際共産主義運動全体に波及するものになった。当時、ソ連に留学していた一部の中国の学生たちもトロッキーの観点を受け入れた。彼らは1928年1月に帰国させられたが、秘密裡にトロッキー氏の言論と文書を持ち帰り、上海にトロッキー派の小組織を立ち上げた。陳独秀はトロッキー氏の文書を見て、大変鼓舞された。たとえば、トロッキー氏の共産党員が国民党に加入することに反対する主張、そして彼による国民党からの退出を何度も提起する意見、(これらは)図らずも(陳独秀の見解と)完全に一致していた(不謀而合)。トロッキー氏が中国大革命失敗後、国会(国民会議)の総スローガンを提起したことは、陳独秀が喜んで受け入れることであったなど。要するに陳独秀は、トロッキー氏の言論中に理論根拠を探り当て、中国革命問題に対して、次第に系統だった意見を形成するに至った。国際インターナショナルの指導を受ける中共は、当然、ソ連共産党一辺倒の立場に堅固に立ってトロッキー派に反対した。これゆえに陳独秀と中共中央の分裂、議論、衝突は、根底においては、彼と国際インターナショナルの間の対立(矛盾)の反映であった。

新中国建国以前中国金融史

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