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反対党容認を求めた胡適 1946/07-48/12

解題
                            福光 寛
 任育徳《胡適    晚年學思與行止研究》稻鄉出版社·2018年pp.149-155,esp.153-155  このときの胡適は、北京大学校長であるとともに、中華民国の代表的言論人の一人であった(写真は礫川公園より東京都戦没者霊苑を望む)。
 国民党は学生運動の「非政治化」に失敗。学生運動を抑え込む政策に転換し学生の反発を買った。他方、共産党が進める統一戦線に加わる学生は少なくなかった。
 1947年夏時点の胡適の主張は、和平改革と自由を強調するもの。ロシア共産党が、暴力で政権を維持し、反対党の消滅をはかり、一党独裁を行ったことを批判。中国は国民の自由独立の人格を重んじる民主自由の道を歩まねばならないとした。反共の立場を明示するとともに、思想信仰の自由や言論出版の自由が社会改革と文化進歩の基本条件だと信ずるとの論陣を張った。
 このような胡適の主張は、まずは中国共産党に対する批判であったと考えられる。それは任育徳が指摘する通りである。しかし蒋介石は厳しい言論取り締まりを行っていた、言論思想の自由を幅広く認める主張は、こうした蒋介石とも距離を置く立場を模索する主張であるように私には思える。この点、1948年8月の論考は、明確に反対党容認、少数者の権利保護の主張を行っている。その意味で任育徳が、胡適の反共の面だけを強調することには少し違和感が残る。
(胡適のような、純粋な自由主義者が支持者を得られなかった理由に私は関心がある。李鋭は、胡適を嫌いだったとはっきり言っている聞一多は、胡適は時代に遅れていたとしている。私は、自由主義を論じる胡適が、社会経済的な問題についてほとんど発言しないことに注目する。第二次大戦後、1947年に入り物価の暴騰、内戦、同胞の飢餓・自殺に祖国の将来を深く憂えた学生の投書(1947年6月2日付け)を受けて、胡適は、自分たちは楽観的に過ぎたと反省の弁を述べるが、具体的な方策を提示できていない。なおこの学生の投書は、国民党、共産党の双方を非難するものとなっている。具体的な方向を示せない点に胡適という人の限界がみえる。参照《青年人的苦悶》載《胡適全集 胡適時論集6》中央研究院近代史研究所2018年pp.74-81)。
 以下は任育徳《胡適    晚年學思與行止研究》稻鄉出版社2018年pp.153-155 

p.153  (1947年)8月1日の講演時に(胡適は)、ロシア共産党統治三十年について以下のように言及した。階級闘争方式で作られた非寛容(不容忍)かつ反自由の政治制度により、暴力で維持される政権により、反対党を圧迫消滅させ、一党独裁は一人の独裁に変わってしまったと。中国は、自由独立の国民の人格を作ることで、民主自由の道を歩まねばならない。胡適は明言した、中国は自由民主の道路を歩まねばならないと。胡適はすぐに続けて「我々は我々の方向を選択せねばならない」を発表し、明確に反共の立場を表明した。彼は自由民主が偏愛される三つの理由を挙げた。一, 思想信仰の自由と言論出版の自由が社会改革と文化進歩の基本条件だと深く信ずるから。二、民主政治制度が、社会すべての階層を含む包含性を最も有しており、全民利益をもっとも代表すると深く信ずるから。三、民主政治は完全無欠ではないが、自由を特に愛することを促し、異なる文明社会への寛容を生むと深く信ずるから。最後に歴史的角度からいえば、民主の潮流はこれまで無数の圧迫と破壊(摧毀)を受け、今に至るも暴力破壊の危険に面しているが、民主政治の信念は揺らいだことはない、すなわち民主運動は将来必ず勝つであろう。

p.155  胡適は個人の立場で発言し、社会グループや共同署名形式では提起せず、大規模な実際行動の方法(作法)でも提起せず、自らその影響力を制限した。1948年8月の間、陳之藩は前後して胡適に手紙を書いて「全力を尽くして」「青年」の「精神貧乏」を除くことで役割を果たし、「筆をもって国に貢献」することを勧めた。陳は胡適が自ら指導し終結した自由思想の人士に時局奮闘の観点を期待した。側面では胡適の個人の立場であることを明示した言論の影響力はかぎられていた。8月12日に胡適は《自由主義とはなにか》を発表し、社会と教育界に対し、自由と民主信念の重要性をはっきりと擁護することを希望した、改革を求め、反対党を容認(容忍)し、少数人の権利などのやり方を保障せねばならないと。9月4日には《自由主義》と題した講演で重ねて態度を表明した。彼は問うた、誰が中国の自由と民主信念を脅かしているのか?答えは中共を指していた。胡適は自由と民主信念を擁護し、また中共との対立姿勢を確立した。
 1947年から1948年の間、胡適の発言の重点は自由と民主、自由世界がソ連ロシアの拡張に抵抗するため中国を擁護することの重要意義に置かれており、そしてまた反対党容認(容忍)の必要の提言に及ぶものであった。彼は個人の言論であると行動と個人の立場を明らかにしたが、ほぼ孤軍奮闘であり、言論を世論とすることはできず、中華民国政府が1948年軍事形勢が劣勢の趨勢を脱却(扭轉)することを助けることもできなかった。彼は中華民国政府東北軍事が全面的に潰敗するのを見て、もはや大きな変化(滄桑之感)が免れないことを知った。12月のうちに彼は北京大学と北平(当時の北京の呼び名)とを後にした。

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