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Milton Friedman 1912-2006 (1)マネタリズムをどう考えるか

 フリードマンの一生とその業績をみると、彼のマネタリズムMonetarismの主張は多様な著作、主張の一部に過ぎないようにも思える。Anna Schwartzとの共著『Monetary History of the United States 1867-1960』において、彼は大不況の原因は中央銀行FRBが貨幣供給を縮小させたことにあるとした貨幣供給が実質GNPの伸び率と均衡を保っていれば、あとは市場が調整する。これが恐らく、彼を含むマネタリストと言われる人々に共通する強固な信念だった。背景には、中央銀行は貨幣供給を統制できるという、これも強固な信念がある。また貨幣供給増加が、物価上昇につながるという貨幣数量説を強く信じていることがあった。マネタリストの主張は、1970年代、各国の中央銀行の金融政策にかなり影響をあたえた。
 マネタリストは1990年代以降30年に及んだ日本経済の長期低迷とデフレ傾向に対して、マネーサプライ供給増加という処方箋を与え、黒田総裁のもと異次元金融緩和政策が実施された。しかし結果として、黒田総裁の時代に日本経済も物価も上昇基調に戻らなかった。→ 金融政策
 長期不況の原因はそもそも貨幣的なものではなく、人口構成の高齢化、アジア諸国の台頭など、構造的要因によるものではないだろうか。日本経済は高度成長の時期から低成長の時期に移行したのではないだろうか。海外からの投資収益や、観光収入などがこれからの日本を支えるのではないか。
 またマネタリストの主張のように、中央銀行は流通する貨幣(貨幣供給)の増減を決定できないのではないか。これは、19世紀イギリスの通貨論争(通貨学派と銀行学派の論争)の論点の一つでもあった。中央銀行が金利を下げればどうか。民間銀行は中央銀行からの借入を増やすかもしれないが(市場の貨幣ストックは増えるかもしれないが)、実態経済が悪ければ、民間銀行の預金は増えても民間銀行からの貸付は伸びない。こちらも、予想される反論である。結果は、貨幣流通速度(=名目GDP/貨幣量)の低下として現れる。事実、1990年代以降の30年間、日本の貨幣流通速度は低下を続けた。異次元金融緩和政策という社会実験が成功しなかったことによって、マネタリズムは今後、日本では退潮せざる得ないのではないか。

ミルトン・フリードマン By David R. Henderson
Cited from Econlib.org

 Milton Friedmanは20世紀の最も傑出した自由市場の鼓吹者だった。1912年にニューヨーク市でユダヤ移民の子として生まれ、ラトガース大学に学んで20歳で学士号を得た。1933年にシカゴ大学で修士号を取得、1946年にコロンビア大学でPh.Dを取得した。1951年にFriedmanは、40歳未満で顕著な業績を達成した経済学者を顕彰するJohn Bates Clark Medalを受賞した。1976年に彼は、「消費分析、貨幣の歴史と理論の領域での成果、安定政策の複雑性を提示したこと」について、ノーベル経済学賞を受賞した。その時までに、リチャード・ニクソン大統領の顧問を務め、1967年にはアメリカ経済学会会長だった。1977年にシカゴ大学を退職後、彼はスタンフォード大学フーバー研究所の上級研究フェローになった。
 フリードマンは1945年のSimon Kuznetsとの共著『Income from Independent Professional Practice』で自身の立場を確立した。同書において彼は、州の免許手続きは、医療専門職への参入を制限することで、もし競争がオープンだった場合に可能であるよりも、ドクターたちにより高い料金の請求を許している、と論じた。
 彼の重要な飛躍(landmark)の仕事である『A Theory of the Consumption Function』(1957)は、個人と家計はその現在所得に応じて、消費支出を調整している、というケインジアンの見解を取り上げた。フリードマンは、人々の年間消費額が彼らの恒常所得permanent income(数年間にわたり人々が期待する平均所得の大きさとして彼が導入した用語)の関数であることを示した。
 Friedmanは1960年代における最も重要な経済学の本である『資本主義と自由』を論争的に書き、一般大衆に向けて自由市場を弁護した。とくに、(徴兵制に対して)軍隊の志願制、自由変動為替相場、医師の免許制の廃止、負の所得税、教育バウチャー(賛成を)述べた。(Friedmanは徴兵制の熱狂的な敵手だった。彼は徴兵制の廃止を彼が議会にロビー活動したほとんど唯一の問題だと述べた。)本書を読んだ多くの若者が経済学を学ぶことで励まされた。彼の考え方は『選択の自由(Free to Choose)』(共著者は奥さんのRose Friedman)とともに世界中に広がった。同書は1980年の最も売れたノンフィクション本であり、Public Broadcasting Systemでのテレビ番組シリーズに伴うもので、Friedmanを誰もが知る名前にした。
 彼の先駆的railblazingな仕事は価格理論(物価が個々の市場でいかに決定されるかを決定する理論)についてなされたものだが、彼はマネタリズムにおいて広く認識されている。彼は、ケインズや現代の最もアカデミックな人々にあらがって、貨幣数量説(価格水準は貨幣供給に依存しているという考え方)を再建する証拠を提供した。1956年に出版された『Studies on the Quantity Theory of Money』においてFriedmanは、貨幣成長の増加は、長期的には、物価の上昇をもたらすが、産出にはほとんど何も影響しない、と述べた。短期的には、貨幣供給の成長増加は、雇用と産出を増加させる、貨幣供給の成長減少は、反対の影響を有する、と彼は論じた。
 インフレ問題そして雇用と実質GNPにおける短期変動に対するフリードマンの解決策は、いわゆる貨幣供給ルールであった。もしFRBが、実質GNPが増加するのと同じ割合で、貨幣供給を求められるように供給したなら、インフレは消えたであろうFriedmanのマネタリズムは、Anna Schwartzとの共著『Monetary History of the United States 1867-1960』が、大不況はFRBの誤った認識による金融政策の結果だと述べたときに、全面に現れた。著者たちから未公刊草稿を受け取ったFRBは、内部では長文の批判書評で対応した。連邦準備の理事たちが理事会の会議録の公開政策を取りやめるとの声も出た。加えて彼らはMonetary Historyの評価を落とす希望のもと、対抗的歴史書(by Elmus R. Wicker)を書かせた。
 Friedmanの本は経済学の専門家に大きな影響を与えた。MITのケインジアンPaul Samuelsonがその最も売れた教科書Economicsにおいて、金融政策の扱いを変更している。1948年版でサムエルソンは「連邦準備の金融政策を景気循環を統制する治療方法panaceaとみる経済学者は多くない」とあざけるようにdismissively書いた。しかし1967年にサムエルソンは、金融政策は全支出に重要な影響を及ぼしたと書いた。YaleのWilliam Nordhausと共著の1985年版では、「貨幣はマクロ経済の政策担当者が持つ最も強力で役に立つ道具」だと述べ、政策作成において「最も重要な要素だ」と付け加えた。
 1960年代を通じてケインジアンと主流の経済学者は、一般的に、政府は失業とインフレとの間で安定的で長期のトレードオフーいわゆるフィリップ曲線―に直面していると信じていた。この見解において政府は、財とサービスへの需要を増やすことで、より高いインフレを受容することで、永続的に失業を減らすことができた。しかし1960年代後半、フリードマン(そしてコロンビア大学のEdmand Phelpsは)この見解に挑戦した。フリードマンは、ひとたびより高いインフレレートに調整されると、失業は次第に増加するだろうと論じた。失業を恒常的に低めるには、単により高いインフレレートではなく恒常的にインフレを加速することが必要になるだろう、と彼は論じた(フィリップ曲線を見よ)。
 1970年代のスタグフレーション―失業の増加と組み合わさったインフレの昂進ーは、フリードマンーフェルペスの見解への強力な証拠となり、多くのケインジアンを含むほとんどの経済学者を改宗させた(swayed)。再びサムエルソンの教科書を経済学者の思考変化の圧力計として使おう。1967年版は、政策担当者はインフレと失業のトレードオフに直面することを示している。1980年版は、短期に比べ長期ではトレードオフは少ないと述べている。1985年版は長期においてはトレードオフはないとしている。


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