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顧准 直接民主は行えない 直接民主と議会清談館(上) 1973/04/20

顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.119-125抄訳。

p.119   一、直接民主の理想は『フランスの内戦』に由来する
 ある人が民主を求め、また「議会清談館」「国家消滅(消亡)」などの大騒ぎの中に居れば、当然直接民主に向かわざるを得ない。彼はこの種の民主制は、下層(基層)から始め、公社形式をとり、人民をまさに主人とするべきだと考える。たとえ代表を派遣するとしても(それは代議士ではない、英文の上では代表も代議士もみなRepresentativeではあるが)、選挙民により随時取り換えられるものである。またこの代表機構は、必ず真正の主権機構でなければならない。
 しかし直接民主の概念は、実際西欧文明の産物である。それゆえに西欧史の展開から、かれらがなぜこのようにしているかを見る必要がある。『フランスの内戦』の中の公社制は、西欧文明の産物である。彼らの現在の議会政治と政党制度がどのように発展してきたか、それと直接民主の関係がどうなっているかを見てみよう。
 さらに我々の現代の問題にさらに接近して討論しよう。
 1.アテナは直接民主の原型である。
 アリストテレスの『アテナの政治制度』によれば、アテナには9人の執政官がおり、そのうちの一人が首席執行官で、彼らは皆無給(給与がない)職であった。
 アテナには元老院のほか、部局に類似した常設の官僚機構はなかった(英語のBureauは、局、機構である。Bureaucracy官僚政治は、すなわち雇われ人が構成する機関が統治する政治であり、元老院の類の議会の直接統治と対比される)。アテナの城邦全体で、連絡員(通訊員)の類の公に養われる公務員はごく少数だった。軍隊は自ら出資装備した
p.120  公民ー民兵が組織しており、将軍は臨時に推挙され、執政官の中の一人は大将軍で、戦時には軍を統率した。
 このようであったのは、アテネの民主は、実際は貴族政治だったからである。商業貴族とその子弟カネがある者の政治であり、政治は名誉ある仕事(體面事情)だった。
   (中略)
 2. ローマの勃興は遅く、ローマはギリシャ文化の影響を深く受けた。ローマの城邦の歴史においては、短期の王政が行われたあとすぐにアテナ式の民主が実行された。ローマには元老院があり、任期二年の二人の執政官を選出した(現在セントマリノ、この小共和国はなおローマの遺風を残している)。作戦においては、執政官が統帥を勤めた。大政の方針はすべて元老院が決定した。軍隊はまた、自ら出資装備した公民が軍を組成した。ローマ人はなお一種の「法律馬鹿」なところがあった。大小のことがらはすべて元老院を通し立法の形式を用いて確定した。我が国の解放以前の大学法学院では、「ローマ法」という必修科目があった。契約、債権債務、所有権、かれらは文字を厳密に斟酌して法律を作った、など。
       (中略)
p.121  (中略)
 
   二、中世期の欧州はいかにして「憲政時期」に変わったのか
 ローマの滅亡は、蛮族の侵入による、蛮族はゲルマン諸族であった。変遷を経て彼らは、モンテスキュウのいうところの「等級君主制」を実行した。これは君主と所属諸侯相互間の権利義務関係を明確にししたもの(諸侯の従属する小諸侯と騎士との関係も同様に)、上は下の権利関係を犯さないというもの。初期において、君主と諸侯は同様に、自身の荘園の農奴が供給するものに頼った、そして。全国的に広がった土地税(田賦)は後に至るまでまだなかった。農奴はただ所属する主人にのみ貢納と賦役の義務を負った。軍隊は封建騎士が組成する騎士軍隊であり、それゆえ中世期欧州の歴史上、ん「長平の戦いで捕虜40万が生き埋め(坑長平降卒40万)」といったことはなく、最大の軍隊は数万人を超えなかった。
    英国のヘンリー・メイン(梅因)の考証によれば、この種の等級君主制は、蛮族がローマ帝国の隣人で雇用兵だった時に、ローマ法の契約観念の中から生み出されたとのこと。十七八年前、私はルソーがいかに彼の『民約論』(全訳が『社会契約論』)を書きあげたか疑問に思ったが、のちに、それもまた彼らの歴史伝統の結果であることを理解できた。

p.122 (中略)
 十四五世紀以後、我々が良く知っているイギリス、フランスの大革命以前に、西欧は開明的専制主義の時期を経過した。有名無実の国王たちは、民族国家統一のため、諸侯の独立性を弱めた。彼らが頼ったのは以下のいくつかの項目である。(1) 階層別(等級)会議を作った。(2)都市と連盟し王権を堅固にした。(3) 対外作戦。(4) 諸侯を宮廷の中に運ばせた。次第に軍権と政権を統一した。直接的征服(すなわち王室が諸侯を消滅し、これを「郡県化」した。)もあったが、しかしこれは主要手段ではなかった。
 このようにして議会制度が次第に形成された。
 英仏の大革命は当然重要な屈折点である。しかし以上の歴史背景がなければ、それらの革命もまた理解しにくい。

          三、議会の淵源とその発展
 議会は、階層別君主制の根の上にできたものである。最初の議会は一つの階層(等級):諸侯を含むだけである。有名なマグナカルタ(大憲章)は、英国諸侯が慣例に反して諸侯の利益を侵犯したことに反対して、生じた造反で勝ち取られた、王室の諸侯に対する「不侵犯約束」である。都市は成長し、商業は発達し、関税が王室の収入となった。王権は都市を利用して統一を行った。議会の構成員は、諸侯を一部とするところから、都市の代表を含むように拡大し、次第に議会が「平和的」階級闘争の集中舞台となった。「戦争は政治の継続である」はこの意義上で理解できる。議会内闘争が妥協に到らないとき、議会外での戦争を決定する問題となる。17世紀の英国革命と18世紀のフランス革命において、議会はいつも闘争の中心だった。中国の歴史をこれと対比して、これはまた中国人が理解できないことだ。

p.123          (中略)

          四、英国革命、フランス革命中の議会
 英国革命以前、英国議会はすでに数百年存在していた。革命中王党と革命党の武装闘争は、議会の中の政治闘争の延長である。クロムウェルが革命軍の統帥となり、国主守護となったのはすべて議会が任命したものだ。それでもクロムウェルの独裁は、事実上議会を消滅させた。「名誉革命」以後は。英国議会が実際上、全部の政権を取得し、王室はしかし傀儡であった。
p.124   しかし1832年以前は、英国議会は実際上貴族が維持(把持)していた。議員になるのは土地貴族の特権で、王党は貴族が組成し、民権党もまた貴族が組成した。のちの歴史家は言う。19世紀とその前、英国資本主義が猛烈に発展した時期、資本家の任務はそろばんをして、カネを稼ぐことだった。大官(高級官僚)、将軍、大使その他権勢職務はすべて貴族が行った。
 この種の奇怪現象は同時に発生したのはフランス革命中の議会の変化だった。大革命初期の議会は英国式だった。国民公会―公安委員会時に到ると、国民公会は立法権と行政権をその一身に集めたが、それは古ローマ式で、代表が組成する直接民主の機構だった。

   五、直接民主は復古であり、直接民主が行えないことは事実が証明する
 実際は1789年の議会が国民公会に転じたのは復古である。マルクスは歴史は繰り返すが、2回目は風刺劇としてだと、言ったことがある。フランス大革命時代の風は共和ローマの昔の復活で、直接民主の昔の復活であった。(マルクスの 訳者挿入)『フランスの内戦』は直接民主を唱導し、一面で異なるものになること(異化)を阻止し(要消滅)、一面で復古を求めている―公民大会、また共和ローマの復活を求めている。
 もし一種客観的批判的な目で『フランスの内戦』を読むなら、”新ファシズム政治体制”を描く一幅の絵を君はそこに見るだろう。
p.125   1. 本書はフランス各都市がすべてパリ公社式の公社を組織すると主張する。すべての都市の公社はすべて直接民主で、決して代議政治ではない。農村はどうするか、かなり曖昧である。直接民主では、当然、執政党と反対党は存在しない。それなら1870年の公社内部にも存在した政策が互いに違う政治派閥、その相互関係はどうなるのか?ロベスピエールと同じく、反対派をすべて反革命派として、消滅させるのか?
 2. 本書は、共和国は各公社の自由連合体だと主張する。共和国は中央政府不要なのだろうか?もし存在するなら、今日たえず悩ませる縦横問題をいかに解決するのか?『フランスの内戦』が明らかに徹底した”横横主義”を主張している。では”横横の間”の関係は如何に処理するのか?もし私有制消滅を徹底するなら、”横横の間”の製品交換ははどうするのか?『反デューリング論』によれば、横横の間の交換は貨幣を通じて行えない、では何によって行うのか?
 3. 『フランスの内戦』は主張する、大革命以来二つのナポレオン王朝が建設してきた官僚機構は徹底して打ち壊す必要がある(今日人々が「旧政権機構を徹底して打ち壊す」という意味は、徹底的に歪曲されている)、アテナ時代の行政機構が全くなかった時代のやり方にもどるべきだと。考えて欲しい、できるだろうか?
 (中略)
 現在人々は『フランスの内戦』を読んでも、『フランスの内戦』が結局何を言っているか、歴史の淵源はどうか、探究もせず、甚だしくは何も知らない。それを現実の生活と対照し、批判的眼光で結局行えることかを観察するなら、当然もはや議論に値しない。


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