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張国燾の離反離党 1938年4月

 張國燾は中国共産党の大幹部の一人だったが、1938年4月、つまり1937年七七(盧溝橋)事変後間もないという微妙なタイミングで、国民党特務により保護され共産党を離党している。ここで資料として使ったのは以下だが、この本には残念ながら、張國燾自身のなぜ党を離れたかという彼自身の主張はあまり詳しく書かれていない。むしろ本書は張國燾には批判的な立場で、つまり共産党寄りの立場で書かれている。それでも見えてくるのは張國燾が、このとき全力で党を離れようとしたことだ。そこには、共産党の非情さへの恐怖があったのではないだろうか。
 蘇杭   蘇若群《揭秘當中的張國燾》人民出版社2015年esp.pp.343-350

   張國燾は1916年10月、江西南昌から北京大学に合格し、学んだ人である。1917年1月4日に蔡元培が北京大学校長に任ぜられ、北京大学の改革が進んだその中で学び、五四運動の学生運動の中心にいた人の一人である。やがて1921年7月、上海で中国共産党が最初の産声を上げたとき、その会議を取り仕切っていたのはこの張國燾であった。
 中央書記まで務めた陳独秀が、共産党から除籍処分を受けたのは1929年11月のことだったが、これに対して1938年4月に、同じく除籍処分を受けた張國燾の離党は張國燾の意思であることがはっきりしているので興味深い。
 ただ残念ながら今回使用した本は、張國燾に批判的で張國燾の主張を十分紹介していない。しかしそれでも張國燾が自身の意思で、中国共産党をなんとか離れたことを縷々記録している。
 当時彼は陝甘寧邊區政府の代表として国民党政府主催の黃帝致祭の出席に機会を得た(1938年4月4日)。この機会を利用して彼はまず西安まで行き、国民党の官員と接触。さらに国民党の手配によって武漢に行こうとした。
 このときすでに国民政府は南京を失っており、武漢に国民政府の軍政機関はすでにほとんどが移転していた。中国共産党も武漢に八路軍の事務所と、中共中央長江局を開設していた。
 張國燾が武漢に行って話したいことがあると、西安の共産党幹部に伝えたこともあり(4月7日)、中共中央は長江局に電報連絡。長江局では武漢の駅に人を配置して、張國燾を待ち受けた。国民党の特務二人とともに武漢に着いた張國燾が発見されたのは11日の夜だとされる。
 共産党側は完全武装であったこともあり、張國燾を取り戻して旅館に連れてゆき、そこに周恩来、王明、博古などが集まった。国民党の特務も別室で見張りを続けた。周恩来たちは張國燾が中央に無断で動いたことを非難するとともに、問題があるなら、解決しようというが、張國燾は無断で来たのは悪かったが、ここ武漢で仕事をさせてほしいと答えている。このことを延安に打電すると、翌12日、毛沢東ら延安在住の幹部から、団結のため早く延安に帰るようにとの返電がくる。
 周恩来らは旅館から宿泊先を党の事務所に変更するように求めるが、張國燾は拒絶。さらに13-14日と説得に応ぜず、陳立夫、周佛海、さらに陳独秀と面会。さらに辺区報告をするといって周恩来同席で、蒋介石にも会ったとされる(16日)。
 16日午後、張國燾は河を渡り武昌に行きたいとして、そこの旅館に見張りの共産党員とともに泊まることになる。17日午前、張國燾の離反の意思が固いとみた周恩来、王明、博古は、張國燾に党に戻るか、党に休暇を求めるか、脱党を声明するか、一つを選択するように求める。張國燾の答えは、戻ることはない、第二第三を考慮して二日後に答えるというものだった。そして、周恩来らが立ち去るや、張國燾は国民党特務に連絡し国民党への投降を申し出た。
 そして部屋には 自分は3番目の脱党の決定をした。探さないでくれとのメモが残された。共産党側がこのメモを確認したのは17日の夜。周恩来は連絡を受けて、18日早朝、中央書記処に電報で連絡、張國燾の党籍を除くように提案している。18日中共中央は、張國燾党籍を除くことを全党に公布、さらに19日に過去の経緯を述べて張國燾は腐敗反党分子であるとする文書を党内で発表している。
 4月20日このうち党籍を除く決定は「新華日報」に掲載発表された。これを受けて張國燾は漢口で発行の「掃簜報」に自身の立場を説明する文書を公表している。要点は国家存亡の危機にあって、今は国民党を中心に抗戦すること、そこまでは中央も承認したはず。さらにその一歩を進めるべきというのが自身の主張との文面である。

 この1938年4月の張國燾の離反離党事件の背景には、軍事や政治をめぐる党内での主導権をめぐる対立の末に、張國燾がとくに1937年前半、党内で激しい、個人批判にさらされたことがある。こうした批判がしばしば殺人に発展することを張國燾自身がよく知っていた。その恐怖が彼を国民党に走らせたように見える。

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