見出し画像

丁東「趙紫陽と陳独秀」2011

丁東《作爲思想家的趙紫陽》在《趙紫陽的道路》晨鍾書局2011年,189-202
(この文は期待して読んでみたが、記述は浅くそれほど感心できなかった。頭の部分と、趙紫陽と陳独秀との晩年において議会制民主主義にあるべき方向を見つけたという結論は納得できるので、そのことだけを記録する。)

 趙紫陽(1917-2005)の人生の最後の15年は軟禁のなかにあった。法律は趙紫陽の公民権利をはく奪していないが、当局は警察力を用いて、趙紫陽の行動の自由、移動(交往)の自由、そして言論の自由を厳格に制限した。存在が意識を決定すると、言われたことがある。相変わらず自身捕えられているとき、趙紫陽の思索(反思)は促された。自宅に軟禁あるいは監禁と同じありさまであった。行動に自由はなく、全てを監視されていた。しかし家族と一緒に生活でき、外界との連絡は維持できた。とくに政治上、政府側(官方)の弾圧と非難を受けると同時に、道義上、国内世論と国際世論の尊敬を享受した。政府はまた少数の老同僚、老部下と彼が時々交流することを黙認した。宗鳳鳴、杜導正、蕭洪達,姚錫華,杜星垣などの人々は意識的に彼と対話し、会話し、録音し、記憶をたどって彼の思想を記録し、趙紫陽がなくなってから晩年の思想を記録した3種の記録が陸続書籍として出版された。2007年香港の開放出版社が出版した、宗鳳鳴が記述した《趙紫陽軟禁中的談話》である。2009年には香港新世紀出版社が、趙紫陽本人が録音整理したとされる《改革歴程》を出版。2010年に香港はまた《趙紫陽還説了什麽·-杜導正日記》を出版し、また楊繼繩などの人の書籍にも関係する章節と回億の文章があり、趙紫陽の晩年の思想は世に出ることができたのである。
  中国共産党の歴史でかつて総書記あるいは中央主席の職務を担当し、そして党内の争いで権勢を失ったものには、陳独秀(1879-1942)、博古、華国鋒、胡耀邦などの人々がいる。李鋭は言う。趙紫陽は中共党内政治生活史を改めた。かれは中共建国後、自己批判を拒絶して総書記を辞任した最初の人物であり、中共建党後では自己批判を拒絶して総書記を辞任したのは、陳独秀に次いで二人目である。宗鳳鳴の記載によれば、姚監復が趙紫陽に対面して次のように言った(2004年3月20日 姚監復は元国務院発展研究中心農業生産力研究室主任 1917年生まれの趙紫陽がなくなるのは2005年1月17日である。福光)。党の歴代の総書記の多くは自己批判して、誤りを認める方式で任期をまっとうしましたが、あなたと陳独秀だけが誤りを認めていません、と。趙紫陽は椅子から立ち上がって姚の前に進み、姚の顔を指さして「陳独秀」って君はいったか?姚は私が言ったのではなく、李鋭同志が言ったのですと返すと、趙紫陽の答えは、ハハハ!だった(宗書p.363)李鋭の見方は趙紫陽に明らかに強烈な共鳴を引き起こした。
 (このあと著者の丁は、晩年の陳独秀(1879-1942)が、近代民主主義は、社会主義とともに人類の発明の一つであり、ロシアの独裁は、イギリス、フランス、アメリカの民主(主義)に比べ劣っているとして、無産階級(プロレタリア)独裁を厳しく批判したことを説明している。近代民主主義=議会制民主主義制度の要素としての、反対党を認め、思想・出版などの自由権利を認めること、これらを排斥したソビエトは独裁にほかならないこと、これらの陳独秀の議論は最近よく指摘される点である。残念ながらそのあとの丁の趙紫陽の思想のまとめ方は深いものではなかったが、趙紫陽自身が、議会制民主主義を中国でも実現すべき目標と考えるようになったという丁の主張自体は正しい。そこに陳独秀と重なる点があることも事実だ。そこでその指摘だけをここでは採用して、引用は避けることにする。)
 丁は《改革歴程》から趙紫陽の次の言葉を引用している。 
 「1989年の辞職以後、国際国内の形勢の変化に従い、私は中国の政治体制改革に若干に新たな認識を得た。過去西欧先進国家で実行されている議会民主制は、人民を主人とするものではないと考えていた。ソ連式の、社会主義国家で実行されている代表大会制度によって、人民が主人であることは体現できるのだと考えていた。つまり代表大会制度が西欧の議会制よりさらに高い次元で民主的形式を体現できると考えていた。事実はそうではなかった。我々社会主義国家が実行している民主制度は、完全に形式に流れており、人民を主人としておらず少数の人、はなはだしくは個人の統治になっている。」

#趙紫陽 #陳独秀 #議会制民主主義

main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp