見出し画像

根津神社

 江戸時代の根津権現社。明治にはいってからの廃仏毀釈(haibutsu-kishyak: a movement to abolish  Buddhism in Meiji period)で神社(Shinto shrine,  Shito is indigenous religion of Japan, important factors of Shinto are polytheism, and worship to everything around us, ancestors, nature, animals)になったが、江戸期は神仏習合(shinbutsu-shugo:syncretism of Shinto and Buddhism, or fusion of Buddhism and Shinto )で本尊の仏像を拝んでいた。権現とは仏が日本の神様の姿で現れることを指す(本地垂迹説)。なお赤坂にある日枝神社は、江戸時代は山王権現社であった。
 現在の根津神社(Nezu shrine)は宝永三年1706年、将軍綱吉が造営した時の姿を現在に伝えている。楼門、唐門,拝殿、本殿、透塀などが残る。国指定重要文化財。このほか、乙女、駒込の稲荷神社があり、千本鳥居がみられる(赤坂の日枝神社にも山王稲荷神社がある)。なお文化財としては明治期に神社に寄贈された庚申塔(Koshin tower)も貴重。
 (Koshin towers were build invarious locations throughout the nation for the memories of celebrating the accomplishment of the event or the number of the event. The event named Koshin comes every 60 days or 60 years.  In the day of Koshin you are standing in the front of the Lord of Heaven you are feeling respect with dread, so you have to awake in the night and to refrain from yourself, be craeful about your behaviour. If you do so you can live longer. Though Koshin custom was very common in Edo era but after Meiji era this custom almost losted. But we can find Koshin towers every where around the nation. and you can see those sculptures of the towers are very interesting. ) 
 写真中央の庚申塔は、合掌する像の左側に寶永(宝永)六年(1709年)の文字が読み取れる。

画像1

 もともとは六代将軍徳川家宣(1662-1712 在将軍職1709-1712)の甲府中納言時代の旧邸があったところで、家宣が叔父の五代将軍徳川綱吉(1646-1709 在将軍職1680-1709)の養嗣子になったあと、綱吉の命令で宝永3年1706年に神社が営まれ社領500石が寄進された。つまり幕府の直接普請したものであり、そのことが権現造りの社殿の立派さに現れている。
 門前には富岡八幡宮と同様に根津門前と呼ばれる岡場所が発達した。岡場所は公許の吉原遊郭に対して傍(おか)であり(Oka basho means the outside place of publicly admitted red light district  like Yoshiwara)、私娼屋(whorehouses)が集まった場所を指す。根津門前は天保12年1841年の天保の改革で一度姿を消したものの、幕末に遊郭の許しを得て復活し、明治にかけて隆盛をみた。しかし明治12年1879年に東京大学が開設されてから風紀上の問題が指摘されるようになり、明治21年1888年に洲崎に移転させられた。
 なお根津神社については見事に復興されているため、戦災被害を免れたとの誤解が一部にあるが、実際は昭和20年1945年1月28日の東京大空襲の際に、本殿、拝殿は内部から燃え、かなり大きな被害を受けた。その様子は以下の益田論文にある。戦後、早い段階で修復工事が行われた。益田兼房「日本の文化財建造物の被災と修復に関する基礎的考察」『歴史都市防災論文集』Vol.1, June 2006, pp.97-104, esp.98-99
    森鴎外(文久2年1862年-大正11年1922年)の小説や樋口一葉(明治5年1872年-明治29年1896年)の『日記』に登場することも有名だが、鴎外や一葉が眺めた風景と、我々が見ている現在がどこまで重なるものか。
 多忙であった一葉は、根津神社を通り抜ける一瞬を大事にしたと思える。
 明治25年1892年2月18日「「梅がゝ聞(きき)ながら薮下より参らん」とて、根津神社をぬけてかへる。風寒ければ春ははる也。鶯の初音(はつね)折々にして、思はずあしとゝ”むる垣根もあり。紅梅の色をかしきに目をうばはるゝも少なからず。家に帰りしは十二時頃成けり。夫(それ)より新著の小説にかゝる。」(『全集樋口一葉 3  日記編』小学館復刻版1996年p.67)
 明治26年1893年4月20日「午後五時より根津神社の境内につゝじを尋ね上野の岡に藤を見る。何(いづ)れもいまだ十分ならず。但し新緑の木(こ)かげはいとうるはし。日没少しすぎ帰宅。」(同前書p.165)
 鴎外の小説『青年』(明治43年1910年-明治44年1911年)はつぎのように根津神社を小説に取り込んでいる。
「小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐるしく須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって根津権現の表坂上にある袖(そで)裏館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。」「坂を降りて左側の鳥居を這入(はい)る。花崗(みかげ)岩を敷いてある道を根津神社の方へ行く。下駄の磬(けい)のように鳴るのが、好い心持である。」
    磬は「けい」あるいは「きん」と読む。佛教寺院で金属製のお椀を鳴らす楽器がさまざまにあるが、その総称である。
 ところで一葉や鴎外が見た根津神社と、私たちが今、根津神社で見ることができるもの、どこまでそれは同じものなのであろうか。見事に整備された根津神社(平成20年2008年から平成21年2009年にかけて、本殿拝殿などの塗り直しが行われて10年余りだが、なお大変綺麗である)にいると、同じことを追体験できているようにも感じるのだが、そう感じることに何か見落としはないだろうか。

交通 地下鉄根津、千駄木、東大前から。いずれも徒歩5分。東京都文京区根津。
私の東京案内

画像4
画像3
画像4
画像5
画像6
画像7


main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp