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中東鉄道と国共合作とをめぐる中共中央と陳独秀の対立 1929年7-8月

任建樹《陳獨秀與近代中國》上海人民出版社2016年pp.161-165

p.161 中東鉄道(中東路)はもともとツアー下のロシアによる対中国(對華)不平等条約の産物である。10月革命後ソビエトロシアは対中国のすべてp.162   の不平等条約の廃棄(廃除)を宣言した。しかし1924年中露署名協定では、中東鉄道は両国共管とされた。大革命失敗後、両国の関係は日増しに悪化。1929年7月10日国民党政府は東北地方当局に中東鉄道の武力による接収管理を指示。その後、北平(北京)、天津、ハルピン、上海などの大都市で反露大会を策動、中東鉄道の回収(收回)は国家主権の保全と、赤禍を防ぐためだと強調(渲染)した。
 事件発生後、コミンテルン(共産国際)は当時の形勢は、帝国主義がこの事件を利用してソ連に進攻するものだと考え、すぐに合わせて各国共産党に人民群集をソ連防衛運動に立ち上がらせるように指示した。17日中共中央は第41号通告を発出、中国人民に「帝国主義によるソ連侵攻に反対し」「ソ連を守る」ことを呼び掛けている」(號召)。
 陳独秀は中央のこの種の宣伝方法に同意していない。彼は28日(1929年7月28日)に中共中央に手紙を出し「中東鉄道問題についての意見」を提出し次のように指摘した。国民党政府は「民族利益の仮面をかぶって民衆を騙し欺き、効果を上げた」。これに対し中央の宣伝方法は「あまりに説教臭く、大衆離れしており、あまりに単純すぎた。・・・ただ世界革命をすることを出発点に「ソ連に進攻することに反対し」「ソ連を擁護する」が大衆動員の中心スローガン」である。これは「ただもっとも覚悟した無産階級分子だけが受け入れられるもので、広範な大衆を動員できないし、(それだけでなく)我々はル―ブルの利益を図っている(盧布作用),民族利益を顧慮していないと誤解させる。」彼は中東鉄道事件の今後の発展について、①帝国主義は中国を利用してソ連に進攻する、②帝国主義各国の中東鉄道争奪は大戦を爆発させる、③どちらであれ、中国は常に戦場であり、「もっとも直接蹂躙されるのは中国人民である」、それゆえ人民にはこの点を指摘すべきである、と考えた。そうしてこそ国民党の仮面を「打ち砕くことができる、そのあとに国民党政府の中東政策を国を誤らせる政策として反対を提起する。」陳独秀は中央の42号通告の中の「帝国主義がソ連に対して戦争を開始するときは、疑問なくその国の労働者階級の革命を引き起こし、世界革命の高まりを生み出す、これは中国革命にさらに有利な条件をもたらし、全国革命の高まりがさらに早く来ることを促すであろう」の削除を建議した。この一節は同志たちに「帝国主義のソ連侵攻にこのような良いところがあるなら、我々は彼らにソ連侵攻を促すべきだ」との奇妙な結論もたらしかねない。
    中東鉄道事件をこのように大衆に説明する(宣傳)するべきだということは、民族利益から出発しながら、愛国主義と国際主義を結合するものであり、国民党政府の仮面を暴露しており、また世界無産階級の利益をも考慮している。これは中国共産党にすれば確かに十分やっかいな(棘手)問題である。陳独秀が提起した国民党政府の「国を誤ませる政策」に反対するスローガンが広範な大衆を動かせえたかはわからないが、彼は説明工作中の難しいところに注意を払った。すなわち
p.163   事件の中の民族問題に。彼による、中央の説明の仕方が堅苦しく(説教)、大衆離れしていて、単調だとの批判はあたっている(中肯的)。国民党政府の民族利益を擁護する仮面を打ち破る意見は、道理にあっている(正確的)。
   しかし中共中央はコミンテルン(共産国際)の世界形勢分析を信じていて、国際的意見に従って(遵照)、帝国主義は必ずソ連に進攻し、そしてソ連侵攻は「必ず世界革命の爆発を引き起こす」と考えた。「中国革命を擁護するにはソ連を擁護せねばならず、ソ連を擁護することが中国革命を擁護することである。」ソ連擁護を放棄することは、「資産階級の捕虜となるに等しい。」このゆえに中央は8月3日の「陳独秀に答える」の中で、彼の中東鉄道事件の発展前途には二種類の可能性があるとの分析を批判して、(これは)「資産階級の和平主義理論の基礎であり、・・・帝国主義と国民党の宣伝を助けている」とし、国を誤ませる政策というのは「資産階級の左派の野党のスローガンだ」などとした。この封書はもはや平静に問題を討論しておらず、政治原則政治路線についての(上綱上綫)一大批判である。
    この時の論争は、ただ陳独秀の7月28日付けの書簡からいえば、彼は中東鉄道事件についてどのように大衆に説明するかについて述べただけで、革命の方針に対してどのような意見も述べていないが、中央は彼の批判を高度の方針路線に格上げした。しかし無視できないのは、このとき陳独秀はすでにトロッキー派の一部の観点を受け入れていて中国革命について体系的な意見を形成していたが、彼は時機を待っており、(あえて)述べなかったことだ。このことは彼の手紙の最後の一節が証明になるであろう。彼は述べている。私の意見は「あるいは皆さんに誤解や推測(揣測)を招かないように、今後重要問題に対し思ったことは党にすべて提供する」、併せて彼の手紙の全文を「党の新聞上に発表出来ることを」要求する。彼が企図したのはただ(他的用意無非)中央は彼の意見に不同意であり、公開の論争が進むことであった。中央は回答して述べた。「常に同志諸君による政治そして党についての意見の公開発表を希望している」「これまでいかなる誤解推測も存在しない」。双方がともに自分こそ正しいと信じていた。
   (中略)

p.164 中東鉄道事件の論争が終わる前に、陳独秀は(1929年)8月5日付け「中国革命に関して中共中央への手紙」の中で、全面的に又系統的に彼の中国革命に対する主張を提起した。この封書の中心(首位的)は国共両党党内合作問題であった。
 (19)20年代の国共両党の合作は、共産党員が国民党党内に加入する合作方式をとった。コミンテルンが提起したこの特殊な合作方式に対して、陳独秀はかつて理由を挙げて、断固反対した。しかしのちに最後には同意し、この種の合作方式に賛同する多くの言論を発表もした。両党の合作は確かに革命の高まりを作り出すうえで多くの貢献があった。1925年の五卅運動中出現した戴季陶主義(戴季陶1891-1949  孫文に近い。共産党を排除する立場とは異なる。孫文を重視することで、国民党右派や共産党とも異なる立場を目指した人物に思える)以後、陳独秀は何度も国民党から退出を建議したが、いつもコミンテルンにより否決された。現在、彼が大革命失敗の機会主義の原因(根由)を引き起こした(導致)とみなしていること、それは「資産階級の革命に対する作用そして危険性を洞察しなかったこと、とくp.165   に国民党の階級性についての誤った観察のためだ」としている。この種の誤りは国際的な「根本政策」に由来し、すなわち「階級連盟」政策で「無産階級独立して指導する革命」の政策に置き換えたことにある。この種の中国革命に致命傷となる党内合作政策は、三二〇事変後改められなかっただけでなく、四一二政変後も改められず、馬日事変後「なお改められず、無産階級の党は資産階級の政党のもと、常に屈服を強いられ、彼らに使われるだけである。」(1929年10月10日付け陳独秀中央宛て書簡)

新中国建国以前中国金融史



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