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李鋭 自らの歩みを語る (2) 2006

《李銳新政見》天地讀書有限公司 2009,pp.67-72 

笑蜀:あなたが体系的にマルクス主義を学び、共産主義と社会主義を理解するのは、延安についてからですか?
李鋭:延安についた後も、ただわずかの雑駁な本を読めただけでした。あのときわれわれがマルクス主義と接したのは主として『ソ連共産党史』だけでした。この本は1938年出版です。毛沢東もこの本を信じていて,  その『ボリシェビキ化十二条』。これはその年の幹部必読書でした。
笑蜀:見るところあなたが当時受け入れた社会主義は、すべて『ソ連共産党史』が説くあの種の社会主義ですね。すべての延安時代において、『ソ連共産党史』を読んだこと以外で、あなたはどのような本をほかに読んだのですか?
李銳:毛沢東の本ですね。『共産党宣言』。レーニンの『「左派幼稚病」を論ずる』、『帝国主義論』は大体読みました。それからイスチの『大衆哲学』。陳伯達の数冊の小冊子の影響はとても大きかったです。すなわち『「湖南農民運動考察報告」を読む』、『内戦時期の反革命と革命』、『十年内戦について』、『「中国の命運」を評す』、『中国四大家族』。彼は毛沢東によって才能が認められていましたし、七大では中央候補委員に選出され、党の理論権威として認められ、彼の書物は当時、社会主義、毛沢東思想、マルクス主義を解説(解釈)したもっとも良い本でした。
笑蜀 :系統的にマルクス、レーニンの古典を研究することはいつ頃始めたのですか?たとえばマルクス、レーニン全集など。
李鋭:当時は話にならないですね。あのとき、マルクス、レーニンの全集はまだありませんし、マルクス、レーニンの選集がでたのはようやく1950年代ですから。
笑蜀:では延安時代を通じて、古典作家の著作(マルクス、レーニンの古典)にあなたは基本的には触れていないのですね?
李鋭 : 触れたのはとても少ないですね。整風運動が始まりますと、主要な任務は六大以来の党の文献(文件)のを学習し、党内の誤った思想を取り除き、毛沢東思想の絶対権威を確立することでした。
笑蜀 : この方面で大きな影響力があったのは(起主要的作用的是)劉少奇ですか?
李銳 :劉少奇だけでなく、陳伯達、それにもう一人、張如心ですが、知ってますか?
笑蜀:詳しくないです。
李鋭:彼はマルクスレーニン学院の教員で延安で毛沢東の読書秘書をしました。当時、彼は「毛沢東思想の旗を高く掲げよ」といった2つの文章を『解放週刊』に発表します。『解放日報』が1941年に始まり、その後『解放週刊』になり停止されました。(これは)最も早く「毛沢東思想」の概念を提起(提出)したもので、(このことは)張如心の功績(功労)で、劉少奇より早かったのです。しかし張如心という人は性格が少し変わっていて、のちに毛沢東は彼を辞めさせ、陳伯達を秘書にします。
笑蜀 : ではまとめてつぎように言えますか?戦争の期間の全体を通じて、1949年以前、あなた方は系統的にマルクス主義を学習したことは全くないと。
李鋭:系統的では全くなかったですね。あのときあったのはほんのわずか(零星)に数冊です。また党内に広範につたわっていることもなかったですね。
笑蜀 :当時あなたは党内で大知識分子の一人でしたか?
李鋭:そういっていいでしょう。当時、党内の老中青三世代の中に大学生はとても少なかったのです。
笑蜀 :あなたのような大知識分子でさえ、読んだ、マルクス、レーニンの古典はこのように少ない。そのほかの人のマルクス主義理論の素養はわかりますか?
李鋭:一般の人はただ通俗読み物を軽く読み、接したのはいずれも解説(二手的)ですね。主たる原因は(入手できる)古典本(原著)がとても少ないことにありました。毛沢東は読書好きではありましたが、おそらく決して例外ではありません(おそらく古典の多くに直接接していないはずです)。
笑蜀:では古典を系統的に触れたのは1950年代に始まることですか?
李鋭:まだかないませんでした。1950年代われわれは仕事一図で、読書の時間はありませんでした。またかようにたくさんの読書もできません。マルクスエンゲルス選集と全集、ともに1950年代にようやく出版が開始された。さきに選集、それから全集。全集は1970年代に至るまで全巻そろわなかった。ですから私は、マルクスレーニン選集を最初は読んだのです。
笑蜀:ではあなたはいつごろから系統的に古典(原著)を読んだのですか?
李鋭:(文革期の)泰城監獄ですね。最後の数年間は図書館は開放されましたので、マルクスエンゲルス全集を借りて読めました。なかでも『資本論』を読みました。
笑蜀:ではマルクスエンゲルス全集を読み終え、『資本論』を読んだあと、あなたの社会主義に対する認識は、『ソ連共産党史』からもともと受けた社会主義の概念と何か違いはありますか?
李鋭:基本的にはなお変わっていません(還是伝統的)。
笑蜀:社会民主主義の書物とは触れていませんか?たとえば第二国際インターのベンルンシュタインの書物は?
李鋭:いいえ。カウツキーの書物も触れていないです。ただレーニンの書物『無産階級の叛徒カウツキー』を通して知るのみでした。このことは私の秦城詩集(詩詞集)『龍膽紫集』の中に関係した記述(反映)があり、その中に「温書」(かつて親しんだ本)の一節があります。獄中で読んだ本には『英国における労働者階級の状況』『ドイツイデオロギー』『共産党宣言』『マルクスエンゲルス書簡集』『ルイボナパルトのブリューメル十八日』『フランスの内戦』『反デユーリング論』『家族(家庭)私有制および国家の起源』『資本論』『国家と革命』『マルクス伝』などがあります。その中で『資本論』の詞およそ400句(節:お話)は記憶して1980年代に雑誌『読書』上に発表したことがあります。
笑蜀:ではこういえますか。文革以前あなたは社会民主党、社会民主主義について全く覚え(印象)がないと。
李鋭:そうともいません(也不是)。知っていたのは、リープクネヒトそれから(ローザ)ルクセンブルグです。
笑蜀:社会民主党、社会民主主義に対する認識は極めて限られていた?
李鋭:そうです。
笑蜀:ではあなたの思想はいつごろから変化し始めたのですか?
李鋭:延安ですぐに疑問が生じたのです(就有了問號)。
笑蜀:原因は何ですか?
李鋭:私が共産党に頼った(投奔)のは祖国を危機から救う(救亡)ためでしたが、民主も求めていました。しかし延安の実際の情況は、考えていたこととは違いました。等級制度や低レベルの現象は、目に余りました(看不看)。実際我々は平均主義には同意しません。指導者たちは皆年配の先輩であり、多くの苦労をしてきた。少し良いものを食べ、少し良いものを着て、生活がすこし良いとして、なにも(そのことに)不満はない。意見があるのは民主問題についてです。およそ1940年から1941年の間、中央青年委員会の一部の同志は、雑文風の大きな壁新聞「軽騎隊」を始めて、封建的後進性あるいは目に余る(不順眼)現象を批判します。私も積極分子の一人で、最初の何回か文章を書きました。
 またもやそこで、誤った言動発表から救う運動(搶救運動)です。逮捕された後、自分はスパイ(特務)だと認めねばなりません。なんでそんなことができますか?認めなければ即、強引に自供を迫られます(受刑逼供)。眠ることを許さず、瞬きも許されず、24時間注視されます。私は五日五夜やられました(最長半月もありました)。あなたは耐えられますか?民主はなく、法治は重視されません。その害を実感したのです。最初は搶救運動ですが、二回目は1959年廬山会議の後、党籍を解除され、労働改造に追放(流放)されたときです。極めつけは文革期間に泰城(監獄)に八年閉じ込められたことです。
笑蜀:二回目の受難は、あなたのさらに徹底的な覚醒(大徹大悟)につながった。
李銳:1959年の後、私は大きく変化しました。自身の経歴からみて、私は鄧小平の次の話に同意します。「社会主義とは何か。我々はまだはっきりと語っていない」。しかし次の点はとても明らかです。社会主義は民主なしであはりえないし、法治なしでもありえない。今、和諧社會が提案されていますが、和諧の前提の一つは民主です。民主がなければ、言論の自由そして出版の自由がなければ、和諧(適切に調整され争いがないこと)はどこからきますか?
笑蜀:この問題では、すべての社会主義国家が順調ではありませんでした(走了彎路)。そこには何か法則(規律性的東西)が示されているのではありませんか?
李鋭:確かに。すべての社会主義国家が順調でなかったのは、あとの人にだけ問題があったわけではないことを説明しています。古典作家の理論にも、経済、政治から意識形態まで、同じく問題があったのです。例えば、暴力革命、無産階級独裁、私有制消滅などの主張は、のちの歴史が証明したところでは、科学ではなかった。エンゲルスは晩年、この種の問題を考え直しているところがあります(有反思的)。前世紀において、第三インターが指導した革命的社会主義国家では、ソ連東欧はすでに赤旗を落としましたが、第二インターの伝統的欧州国家には社会党国家があり、社会主義はいずこでも成長発展中です。現在からみると、社会主義をするにはあせってはいけない。社会主義は強制して進めるものではなく、社会主義は資本主義の自然な進化(演進)の結果である。マルクスが語ったところでは、資本主義の発展が最高段階に達したときにのみ、またこれ以上は発展できないというときに、生産関係はようやく変えることができる。それゆえに(資本主義が)発達した国家が社会主義をする資格がある。現在みるところ、発達した国家の社会主義要素はもう十分であるように見える。私が見た資料によると、スウェーデンは顕著な貧富の隔たりがない。個人収入の差異はもともと300倍以上にまで達したが、国家が税収でバランスをとり、4:1にまで下がり、共同富裕を基本実現した。
笑蜀:あなたのこのような思考はいつごろから始まったのですか?
李鋭:50年代にソ連に2回行きました。1979年のあと、米国に2回、ブラジル、スイスに行きました。日本、フランス、フィリピンを通り、さらにオーストラリアまで行きました。これは私の視界を広げ、思考を啓発しました。次のように言えます。80年代以後、国際視野をもつとともに、発達国家とくに欧州国家に関心をもち、社会民主主義に関心を持ちました。社会主義とはいったい何かを考えました。私の現在の考えは社会主義とはみんなが少し良い生活ができること、共同富裕であり、生活に保障があることです。社会生活では平等と公正が重視され、人権が保障されます。物質文明、精神文明そして政治文明を正しく実現することです。
 さらに人と自然が和諧(適切に調整され争いがないこと)しなければなりません。わたしは自然科学がすこしわかります。水力発電建設に11年従事して、わたしはその理屈がわかります。ですから社会主義の概念をすこし発展させて環境保護を含むものとしました(涵蓋了)。人と人が仲睦まじく(和諧相處)人と自然が仲睦まじく、社会主義はこのような完全な体系(整體)となるべきでしょう。

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