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王丹 中華人民共和国史十五講③ 中ソ関係と文化大革命 1952-69

王丹 中華人民共和国史十五講 ちくま学芸文庫2014年 第6講から第8講の抜書(写真は占春園の大イチョウ)。

p.231   重要なのはソ連との関係であった。・・・高崗が党から除名処分にされた(1955年)とき、その理由の一つはスターリンが高崗を高く評価したことであった。いまや、彭徳懐も似たような疑惑を身に受けることになったのである

p.238   (廬山会議後の軍隊上層部彭徳懐勢力の粛清)
軍隊内部で異なる意見が醸成される可能性が、みごとに取り除かれてしまった 

p.246   
早くも1962年8~9月に招集した北戴河の中共工作会議で、康生は小説『劉志丹』には政治的問題があると提起した。そこで9月の中共第八期中央委員会第十回総会で、毛沢東は『劉志丹』の問題について講話を行い

p.248
(1964年)7月初め、毛沢東の意見に基づいて、中共中央は彭真、陸定一、康生、周揚、呉晗からなる文化革命五人小組を設置し、彭真を組長にすることを決定した。ここにはすでに、文化大革命の輪郭がくっきり現れていた。

p.252
1952年末,第一期中国人民政治協商会議の任期切れを目前に控えて、中共は引き続き第二期人民協商会議を招集するか、それとも新しい正式の憲法を初めて制定するか、この二つの選択に直面していた・・・選択されたのは前者の方で、そのうえ憲法制定の工作を3年後まで延期するという計画がたてられた・・・
しかし、スターリンは同意しなかった。1952年10月、スターリンは来訪した劉少奇に憲法の制定を提案し・・・あくまで固執して(人民が選挙したものでないこと、憲法がないこと、政権への不支持宣伝の口実になることを指摘したとのこと)

p.255
毛沢東は・・・具体的な行動を起こしては、ますます兄としてのソ連の立場を蔑ろにする態度に固執した・・・たとえば1958年8月13日、毛沢東はソ連に前もって知らせることなく、金門島への砲撃を命じた

p.256
1956年3月24日の政治局拡大会議で、毛沢東は・・・歴史的な恩讐を総括してこう述べた。「土地革命の時期に、スターリンは王明路線を支持して、中共の勢力を国民党支配地区で100%、ソビエト区で90%損壊させた。抗戦初期には、再び王明を支持して中共を蒋介石に従わせたうえ、抗戦後期には、中共が内戦に赴くのを許さなかった」(このあたりの王丹の記述はなぜか、毛沢東に同情的である。もう少し客観的に書けないかと思うが。福光)

p.257   フルシチョフの秘密報告(1956年2月の第20回大会)のあと
フルシチョフはスターリンを清算したのち、ソ連を率いて伝統的なソ連モデルとは異なる道を歩み始めたのだが、毛沢東はそれに賛同しなかった。・・・中共内部でもその路線に支持が集まるのではないか、と不安におびえることになった・・・それゆえ・・・毛沢東はソ連への批判的な立場をとらなければならなかった

p.257   ソ連第20回代表大会は個人崇拝への反対を提起したが、それも毛沢東の癇にさわった。自身の個人的権威に対する挑戦だと感じたからである。

p.258    (ソ連第20回代表大会     帝国主義勢力は弱体化した、世界戦争は回避できるとして平和共存の理論を提起 資本主義から社会主義への移行は議会で多数を勝ち取ることで可能とする平和移行の理論を提起)

pp.261~262
(1960年)7月16日、ソ連政府は中国政府に、中国で働いている専門家を9月1日までに呼び戻すことにしたと通知した。しかも間を置かず、一方的に中ソ両国政府の調印した12の協定、ならびに343人の専門家契約とその補充書を廃棄し257の科学技術協力プロジェクトを中止した。(ソ連側の理由付けを述べていないので、記述としてバランスが悪い。福光)

pp.262~263
1961年22回大会 社会主義と資本主義の「平和共存、平和競争、平和移行」「武器なく、軍隊なく、戦争なき」(三和三無)の路線採択。さらにプロレタリアート独裁をもはや必要としないとして「全人民の国家」「人民全体の利益と意思を表す国家」になったと主張。

p.264     ソ共中央は1963年7月14日 中共指導者は
個人崇拝の擁護、スターリンの誤った思想の伝播者の役割を演じていると批判

pp.268~269
(中ソ論争は文革の機運の形成を促進したと考えられている)

p.284    (なぜ生産の発展に傾注せず文革に進んだのか)
毛沢東の階級闘争重視・・・階級闘争がかれにとって、政権を安定させるだけでなく、人間の改造と社会の改造のための主要な道程であった

p.302    
絶え間ない政治的粛清と大衆運動とが社会支配の基本的手法であり、権力が侵蝕されるのを抑止し、幹部隊列の革命的意思が衰退するのを防止するための主要な方策である。毛沢東はそう考えていた。

p.318
1966年1月、葉剣英は中央軍事委員会副主席に任命された。そしてまもなく、また
p.319
中央書記処書記、軍事委員会副主席兼秘書長にも任命されて、中央軍事委員会の日常工作を主宰(主持)することになった。文革初期、政府機関と党の系統が深刻な突撃を受けたなかでも、軍隊は超然たる態度を保持していた。

p.321    (2月逆流 懐仁堂事件)
(1966年)2月14日の午後、政治局拡大会議が中南海の懐仁堂で開かれ、その席上、老元帥たちはまたもや中央文革小組のメンバーと衝突した。
・・・(2月16日の)夜、毛は怒りを爆発させた。夜ごと会議を招集して、古参幹部たちを批判したのである。 

p.322
懐仁堂の衝突ののち、軍隊内部で大粛清が行われた。以来林彪は表に立って軍隊のすべての業務を掌握し・・・1969年、中ソ間で「珍宝島」事件が勃発した。林彪はその機に乗じて、葉剣英ら老元帥を北京から転出させた

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