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劉少奇 私のこれまで 1942春

(これは劉少奇(1898-1969)が1942年春新四軍に従事していたオーストリア出身の医者ヤコフ・ローゼンフェルドにあてて書いた手紙である。このとき劉少奇は43歳あまりである。『劉少奇自述 』國際文化出版公司  2009  pp.1-4)(写真は肥後細川庭園 2020年5月31日)

p.1 私は1898年11月湖南省寧鄉縣鄉村の道林炭子冲と呼ばれるところの生まれである。私の父の名前は劉壽松、母の姓は魯であった。彼らは二人とも農業に従事した。父は長い間教育を受けたが、とても勤勉であり、かつ指揮生産に参加した。我々の兄弟姉妹は六人で、私は最も小さかった。彼らは皆勤勉な農民であり、私の父の指揮のもと仕事をした。私の父は祖父の遺産として田地60ムーを保有し、自らは30ムーを耕し、30ムーは他人の耕作に貸し出していた(この30ムーが我が庄屋からとても遠かったためである)、しかしまた家の近くの15ム-の別の人の土地を借りて耕していた。他人を雇うことはなかったが(不請長工)、臨時に少し手伝ってもらうことはあった。父や兄の勤勉と節約のおかげで、家庭経済は次第にわずかな余裕を加えた。私の父は私が13歳のときに亡くなり、家の中のことは私の兄が管理した。私の家人はもともと悪いことはせず、私の教育そして影響は、とても公明正大(正派的)であった。
   私は幼い時、鄉村で学んだ。また本縣小學を卒業した。しかし家庭が貧しく、私の兄は私を中学に進学させることができなかった。しかし私自身の努力奮闘と兄の援助により、私は長沙の某中学を卒業できた。ただ再び大学に進むことができず、そのまま長沙にあった軍官学校(湖南陸軍講武堂)で軍事を学んだ。1年経たず、この軍官学校は軍閥戦争によって破壊(摧毀)され、私は再び学校を失った(我又失学)。そののちまた私の奮闘により北京の大学で学び、当時有名であった学生運動(五四運動)に参加した。この時私は社会主義のパンフレットや文章を読み始めており、すぐに社会主義派の人物と接近した。1920年の冬、信頼できる社会主義の先達(老先生)賀明范の紹介で社会主義青年団に加入した。このために私は北京から長沙に戻り、また長沙から上海に向かって、当時の青年団に加わり、陳独秀などが創設した外国語学校(上海霞飛路新漁陽里六号)でロシア語を学んだ。1921年の夏の初め、青年団により派遣された私と数十人の同窓はモスクワの東方大学に学習するため派遣された。モスクワで青年団は共産党に転入した。
 私は東方大学第一期卒業である。わずか八ケ月学んだだけで、すぐにコミンテルン(共産国際)により中国工作に派遣された。私は1922年夏の初め上海に戻った。
 上海に戻ると、党中央は私を中国労働組合書記部に配属した。この時から私は中国職工運動の中の活動を開始した。私の現在の名前はこの職工運動に参加した時に用いた名前である。当時労働組合の書記部は公開で、党は秘密だった。
 1922年秋、中央は再び私を湖南駐在の党特派員として派遣した。すなわち毛沢東が指導する湖南区委員会とともに仕事をした。当時毛沢東と湖南区委員会担当の同志は皆労働組合書記部で公開の職務に従事していた。
 私が湖南に達して間もなく、粤漢鉄道の労働者がストライキを起こした。毛沢東そして私もともにこのストライキを指導した。しかしストが終わる前に、中国の有名な煤鉄会社漢冶萍之下萍鄉煤礦の労働者がまた争議を発生させた、私はまた江西西部の萍鄉煤礦にゆき、そこで全鉱山労働者のストライキを指導した。このストライキは完全に勝利した。我々の労働者の中の威信はこれまでになく高まった。全鉱の労働者は私ともう一人の党員を労働組合会長に選出した。私は萍鄉煤礦の労働組合でずっと3年近く仕事をした。漢口や長沙の職工運動には本当にわずかな時間しか捻出できなかった。
 1925年春私は上海へ工作に行った。また広東にゆき中国第二次労働大会開会そして中華全国総工会成立を準備した。五一大会が開幕し、大会で私は全総の副委員長(副委員長に船員林偉民)に選出された。会がおわったあと、私は上海にゆき日本紗厰の労働者ストの指導に参加した。上海では英日の当局がこのストを抑えようとして労働者顧正紅を銃殺したことは、上海南京路の「五卅」の示威と「五卅」の血案を引き起こした。これは上海労働者総同盟のストライキ、商人の営業停止,学生のストライキ、全国的反抗運動につながった。私は当時上海総工会で工作しており、ストライキを指導していた。
 上海のストライキのあと、状況は悪化し、私はすぐに湖南にもどった。しかしついに湖南省長趙恒惕により逮捕投獄された。ただしこれは全国各地の労働組合そして国民党による省長への批判(攻撃)を引き起こしたので、一月後、趙は私を出獄させざるを得ず、湖南の国境で私を追放した。
 出獄後、私はすぐに広東  全国総工会の仕事に向かった。1926年夏北伐が勝利し、私は各地を回りながら漢口に至り、漢口で仕事をした。
 大革命が失敗した後は、私は上海と天津で秘密の仕事をした。1929年には満州で仕事をし、満州省書記を務めた。満州で一度逮捕されたが、証拠が不十分だったのと、私の法廷闘争もあり、2ケ月後、無罪との宣告を受けて出獄した。
 1930年夏、モスクワにゆき職工国際第五次世界大会に出席した。大会で私は職工国際執行委員に選出され、職工国際工作に従事した。
 1931年冬、上海に戻り秘密工作に従事した。1932年冬江西ソビエト区の工作に従事、第二次ソビエト大会でソビエト政府主席団の一員に選出された。
 1934年紅軍の長征。私は紅軍の中で仕事をした。紅軍第三軍政治部主任に任ぜられた。
 紅軍が峡北に達したあと、少し仕事をしたのちに、私は天津での秘密工作に派遣され、中共中央北方局書記に任ぜられた。
 1937年7月に抵抗戦争が発生し、私と北方局は、郷村ゲリラ区域に移動した。また八路軍総司令部とともに、華北のゲリラ戦争を組織指導し、抗日根拠地を建設した。
 1938年冬、私は華中新四軍の仕事に赴任し、1941年初めに新四軍政治委員を任命された。
 1930年から現在まで私は中共中央政治局委員の一人である。
 私がこれまで書いた文章、パンフレット、全国総工会の文書は極めて多いが、しかし多くは私の名前を用いることなく発表されたものである。私の名前で発表され中国のマルクス主義者の間で比較的広く読まれたパンフレットに「共産党員の修養を論じる」がある(発行部数およそ10万冊)。

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