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顧准 科学と民主 史官文化批判 1973年3月27日

顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.114-118
中国になぜ科学と民主は生まれず、なぜ科学と民主が根付かないのか?

p.114            一、歴史的な重い負担
 科学と民主は、舶来品である。中国の伝統思想は科学と民主を生み出さなかった。もし中国文化の淵源と根拠を少し探索するなら、中国は科学と民主を生み出していないと、断定できる。それだけでなく、現在に至るまで、中国の伝統思想はなお中国人の身体にとり歴史の重い負担となっている。現在人々は歴史を読むことを提唱し、さらに中国史をさらに読むべきだと。そして古代の文物は悠久の文明の証拠で誇るべき栄誉であるが、自覚的あるいは無自覚にこの種の歴史を読む意図は、我々の祖先の光栄の歴史を仰ぎ見ることで、科学と民主を窒息させることにある。それゆえ、中国伝統思想を批判することは、科学と民主の発展にとり十分必須である。 

           二、ギリシア思想は工商業都市(城邦)文化の産物である
 現代西欧人(たとえばケネディ、ラッセル、フェアバンク)は皆承認しているが、西欧文明とはギリシャローマ文明である。その成分を分析すると、ギリシア思想、ローマ法そしてゲルマン人の騎士精神がある。多くの変遷変化を経て、複雑に積み重なっている(頭緒紛繁的)。しかしこの三つの中では、ギリシア思想が基本である。
 ギリシア思想には事物の道理を究める(”格物”)面がある。始まりは中国の五行陰陽のあの一組と類似して、際限のない本質論の奇妙(玄妙)な仮説であったが、我々の周囲の事物を実際に即して分類、世界事物の形成原因を研究、若干の根本的範疇で規定することを試みるものだった。今までに植物分類学、動物分類学、さらにもとはアリストテレスのような一組、そこから論理学が生じた。
 ギリシア思想には数理神秘主義がある。ピタゴラスが直角三角形の定理(勾股定理)を発見すると、百牛大祭が行われた。彼らは中国の道士が、"河図洛書"の数理を信奉したように、宇宙の秘密をそこにため込んだのである(蘊涵了)。そして彼らは少数のいくつかの数学の定理と命題に不満どころでなかった、完全に整った論理推理体系を構成したのである。ユークリッド幾何学は、近代初期にたるまで、なお古典教育の主要構成部分だった。スターリンはなお幾何学について述べているが、これは彼が中学で古典教育をうけたからである。
 ギリシア思想は、教養のある貴族が神が出現する世界を静観する体系だった。それは確かに「天は変わらず、地もまた変わらない」形而上学だった。そしてその事物の道理を究めること(”格物”)、物事をはっきりしない状態から徹底的に究めたいというものであり、ギリシアの工商業城邦の手工業師の客観事物を「変革」する過程中の精錬が生み出したものだった。それは王家の文化でなく、道徳の戒め(誡命)でもない。それは頭の悪い人の徹底して究める精神で、日常生活の中から一条の宇宙の秘密の道を探り出そうと企図したもの。そのこの種の特徴は、のちに確実にキリスト教に吸収されてその教義の一部分になった。そしてキリスト教はこのために一面で科学を窒息させまた他面で科学を保護育成(撫育)する宗教になった。
 ギリシア思想は貴族の思想で、王家の思想ではない。この種の思想を生み出したギリシアの城邦は大昔の(原始)民主を実行している城邦であり、この種の民主権利は貴族に加えて上層平民に限られるもので、少なくとも奴隷は含まれていない。
 ギリシア思想の神秘主義の部分は、哲学史の上では唯理主義が継承した。唯理主義者はしばしば大科学者である、例えば解析幾何を発明したデカルト(笛卡爾)である。ニュートンは力学の三定理を発見したが、その動機は神の存在(上帝哩)の証明にあった(そこに有名な最初の一押しがある)。
   F. ベーコン自身は不道徳な人だった(彼は友を売って栄誉を求め、賄賂を受けて免職されている)。しかし彼はギリシア思想が神の出現を静観するのみで人類の幸福に無関心であることを非難し(痛斥)、アリストテレスの不道徳を非難している。彼はすべての事物変革の実践を系統的に研究することを提唱し、知識の理論化(条理化)をしようとした。一言で言えば、彼は実験を提唱し、帰納法を提唱し、迷信と偶像とを打破することを提唱した。英国王室学会は、彼の思想の影響のもと、おこされたものだった。奇怪なことだが、中国人は、実際、ベーコンの「実践論」の継承者だとデユーイを非難している。デユーイの書物は、もとよりベーコンとは異なるものであるが、違いは論証と資料現代化にのみにあり、その基本思想はベーコンと少しも違いはない(毫無二致)。残念なのは胡適がデユーイを損なってしまったことである(中略)。それゆえ私はこのことを書くにあたり、実際上工具主義あるいは実用主義の実践者だとは自称できない。
 工具主義はすなわち多元主義である。多元主義とギリシアの神の出現を静観する主義とが異なる所は民主的である。そしてこの点をさらにのべるなら、それもまたギリシア思想の根のところから生まれ出たものである。

 三、中国文化の淵源は工商業と全く無関係ではないが、史官文化である
   中国の文化の淵源は工商業と全く無関係ではない。現在の史料によれば、我々の文化は商代にさかのぼる。商はまさに王亥が牛を連れ馬をに乗って商を営んだことを指す。地下の発掘は、商の都城は手工業中心であることを証明している。そうなのだ、未開時代の文化を超越したもの、生産工具とも交通工具ともなじまないもの(殷の車(輅))、武器の生産に関係したもの。現在のすべての文物展覧中の珍品は、また手工業では作れない製品である。牧羊営む地の人が、未開の状態にあってよいが、商人の眼界が広がり、手工業者が集住したところ、そこが、宗教、文字の発祥の場所になった。
 しかし中国は大陸である。あのギリシアの城邦のように、商業、航海、植民の人々の集住したものとは異なる。大陸の”百工”と文化は必ず王朝権力に依拠とならねばならない。王朝が文化工芸を掌握し、王朝がそれを伝播し名声を広め、対外征服を行う。このようであるので、工芸、文化は永遠に政治権威に服従し、”思想”の主題は政治権威で、事物の道理を究めること(”格物”)は永遠に登場しない。これは西欧においてすら全く先例がないことではない。ギリシアの絢爛たる文化がアレクサンダー(亞歷山大)に支配されて征服の道具になって以後、アレクサンダーとその継承者の帝国は文化上なんら創造性を加えなかった。東ローマ帝国はアレクサンダー時代のギリシア精神(その実際はギリシアの知識と東方専制主義の混合品だった)が浸透したあと、ビザンチン帝国(東ローマ帝国と同じ 拝占庭帝国)はマルクスが言う所の没落した帝国になった。
 商代の王家の文化は、その後ずっとその基本形態が続いた、これはすなわち範文瀾が絶賛した(盛贊)”史官文化”(訳注 史官は歴史の記録を記録する役職 史官文化とは転じて時の政権を正当化する文化のこと)である。史官文化は実際は周代に発達し形が整った。周代は中国の歴史上確かにその偉大な作用が起きたのである。以下は私の根拠がない推測の言葉である。主題との関係は少し間接的であり、史官文化の形成についてはおそらく別に展開することができる。
 (中略)
p.118      (中略)
          四、中国思想の貧しさ
 中国思想にはただ道徳の訓戒(訓条)があるだけである。中国には論理学がなく、哲学もない。『周髀算経』(訳注 中国古代の数学書)はあるが、公開の場で議論されることはなかった(登不上臺盤)。中国には多くのすぐれた工芸品はあるが、精密科学のようなものを発展させるに至らなかった。中国には唯理主義がない。範文瀾は宗教を非難するが、彼は知らないのだ。キリスト教と唯理主義が一諸に育ったことーこれ(唯理主義)は宗教精神であることを。もとよりそれは科学を窒息させたが、(同時に)また科学を育成したのだ。中国には体系的な経験主義が生ぜず、状態はわかるが理由は分からないと言った技芸はある、これは”主義”ではない、ただ伝統の継続(因襲)となるだけである。中国には原始的弁証法はあるが、中国人は聡明に過ぎ、物事を徹底して詰めることに怠惰であり、結果として、体系的弁証法を発展できていない。ヘーゲルが証明になるように、弁証法を発展させるにはさらに真正の宗教精神が必須である。
 おそらく宗教精神がないことにもまた良いところがあるー科学と民主を受け入れやすいからである。しかし政治権威の平民化は、宗教精神の駆逐に比べて決してさらに容易ではない。
                         1973年3月27日  


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