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中共八大(1956)について

 1956年9月15日から9月27日まで開かれた中共第八次全国代表大会は正しい方針を定めたが、それが翌年以降、反右派闘争が拡大するなか、堅持されなかったことが、1950年代末からの大飢饉、1960年代半ばの「文化大革命」の混乱を招いた、との指摘がある。出席1021名。欠席は5名。ここでは邵琂『中共八大紀事』中共党史出版社2016年から2本の論文を検討する。すなわち以下である。
 李捷『毛澤東與中共八大』(摘自《縱橫》1996年第7期)前掲書pp.42-53(この李捷の文章は、ある程度は手元の『毛沢東文集』1999年人民出版社で跡付けることができた。しかし『文集』で掲載されていない資料も使っている。結局、我々は元の記録へのアクセスに制限があり、公表されるものは加工されているのが常識であるので、李捷によればとして受け止めるしかない。)
    張麗 郭蘭瑛『陳雲與中共八大』(摘自《東北師大學報 哲學社會科學版》2004年第6期 收入本書時標題做了修改)前掲書pp.134-139
  
 『毛澤東與中共八大』は冒頭で、この大会は経済の回復と工業化が進む中での大会であっただけでなく7ケ月前に、モスクワで行われたソ連共産党第20回大会終了前夜にフルシチョフが行った秘密報告に触れている(p.42)。すなわちそこで明らかになったスターリン批判の影響を無視できないとしている。
 八大の準備は1952年末に始まったとして、李捷は1953年12月の憲法起草会議の中で表面した高崗問題に触れている。憲法起草に絡んで、毛沢東が劉少奇に中央工作を代理させることを提案したところ、高崗がこれに反対して劉少奇を倒そうと鄧小平、陳雲にそれぞれ持ち掛けた。しかし鄧小平、陳雲はこれに反対し、高崗が毛沢東により批判を受けることになった。それは1955年3月全国代表大会での高崗と饒漱石の党籍除籍処分につながった。つまり八大を準備する途上でこの高崗と饒漱石の問題が起きたことになる。
 李捷は、七大と八大の報告担当者の違いは、毛沢東の指示によるものだとしている。七大では毛沢東が政治報告として、劉少奇が党の規約改正の報告したが、八大では政治報告は劉少奇、第二次五か年計画報告は周恩来、党の規約改正は鄧小平の分担(負責)とされた(李捷の書き方では1955年11月の七届六中全会において)。
 また劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲の4人を、中央の副書記として準備すること、書記処総書記として、鄧小平を充てることを、毛沢東は提案し、国家の安全のためには多くの人が、皆責任を負うことだ、とした。そして自身は、主席は適切ではなく、名誉主席をさせてほしいと発言したとのこと。この提言をだしたとき、毛沢東は、スターリン個人に権限が集中しすぎたことを問題としてはっきり意識していた。実際八大で可決された党規約には中央に副書記若干名と総書記を置くこと、必要があれば名誉主席一人を置けること、などが規定されたという。
  1955年12月に劉少奇が政治報告のため中央各部門の聞き取りを始めたことに啓発されて、毛沢東は1956年2月から3月にかけて34部門からの報告を連続して聞き取り、中国の国情に合った社会主義建設についての見方を次第に形成したが、それが1956年4月25日に中央政治局拡大会議で発表された「十大関係を論じる」という講話だと、李捷は言う。
 8月に行なわれた七届七中全会で、毛沢東は、(劉少奇の政治報告で)重要なことは、社会主義建設と経済建設であるが主要には経済建設である、と述べたと李捷は言う。また9月、八大大会出席のため来訪したイタリア共産党代表団と面会したときに、スターリンの誤りの根源は、階級闘争がすでに終結し、人民がすでに平和的方法で生産力を保っているときに、なお階級闘争を進めたことにある、としたとのこと。
 1956年7月から9月。とくに8月の29日から9月6日にかけて、毛沢東、劉少奇、周恩来、陳伯達、胡喬木,陳雲、陸定一などの間で政治報告の内容が綿密に検討された経緯を李捷は明らかにしている(ただすでに述べたように大元の資料に我々はアクセスできないので、李捷によればというしかない)。
 毛沢東自身の訂正は21ケ所。李捷は重要な箇所として以下を挙げている。
 一つは目下の党の中心任務は、六億中国人民の共同努力により、できるだけ早く、経済文化の建設をすすめ、遅れた状態を克服し国家人民を富裕にすることだとこと。
 一つは個人の突出を防止すること。李捷はそれが八大報告中の党の指導(領導)の一節にある、集団指導原則の実行、党内民主の拡大。あるいは党規則の報告にある個人の神格化、民主集中制原則の貫徹などに示されいるとする。
 一つは台湾解放について、武力使用を避けて平和的交渉(和平談判)を進んで用いる用意がある(願意用)としたこと。
 一つは、国際情勢について、和平の維持に積極的だ(争取持久和平)としたこと。
 李捷が言いたいことは、毛沢東の問題は八大に始まるとして、八大報告の内容を毛沢東が事前に知らなかったと言う人すらいるが、それは事実に反し、毛沢東は綿密に、劉少奇―周恩来―鄧小平の報告を目を通し検討していたということである。
 そして最後のところで李捷は、スターリンの誤った指導にも直面するなか、中国共産党としては自身の思想の旗印を必要とした事情があったとしつつ、他方で毛沢東自身は繰りかえし、自分をマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンと同列に置くことや、毛沢東思想といった言い方に反対していたとしている。

 つぎに張麗 郭蘭瑛の『陳雲與中共八大』ついて。
 まずこの大会で陳雲が「三つの主体と三つの補充」の思想を提起した、とする。すなわち、
 工商業経営方面では、国家と集団(集体)経営が主体で、個人(個体)経営は補充である。
 生産計画方面では、計画生産が主体で、自由生産は補充である。
 社会主義的統一市場内では、国家市場が主体で自由市場は補充である。
 陳雲によれば、社会主義改造のスピードがあまりにも早すぎたので、若干の一時的局部的に間違い(錯誤)が生じた。これも三つの面がある。
 一つは手工業集団化(合作化)の過程で、あまりにも多く合併が実行され、損益計算(計算盈虧)の統合(統一)がおこなわれ、一部の手工業品品種の減少、質の低下(質量下降)が生じた。
 二つ目は資本主義工商業の社会主義改造でも同様に一部の盲目合併減少が発生し、手工業と類似の問題が生じた。
 三つ目は農業集団化(合作化)の過程において、(公社)社員家庭が経営する副業に配慮が十分でなく(注意不夠)加えてほかの方面の影響も加わって、一部の副業産品の生産が減少した。
 このような経験の不足から生まれた誤りを正すために陳雲は5つの措置の採用を提起した。
 (1) 綿布砂糖等規格が簡単な商品は統一購入統一消費を継続するが、品種が多い日用雑貨については選択購入を認めること。工場は余った商品は自身で売れるようにすること。
 (2) 盲目的に分散経営を改め生産を集中しているが、大工場は小工場に比べ変化に対応するに機敏である。手工業方面では小合作化を許し、個人の損益計算も許し、商人について合作内でも個人経営も許す。農村の副業生産、社員の分散経営も品種、生産量の増加につながり市場の需要に適応し、社員の収入増加につながる。
 (3) 糧食、経済作物、重要農副産品は国家の統一購入に残すが、多くの農業副産品は各種の商店、供給団体が自由に購入、販売運送が許される。
 (4) 価格政策を生産に役立てる必要がある。商品の品質が上がるように品質の優良でコストがかかるモノの価格は高く、新製品のコストは高いので新製品の価格は高くあるべき。こうして一部の商品は一時高い価格となることで生産が促進されるとした。
 (5)国家計画管理方法の一部は変更されるべきだとした。一部は国家計画に入れるべきではないとした。それは予測に過ぎず、市場の需要に合うかどうかわからないので、数字は参考指標にすぎないとした。
 こうした陳雲の主張と大会決議文を著者たちは比較している。決議文では個人経営という表現が控えられている。そこで著者たちは、陳雲の「三つの主体と三つの補充」の思想は八大に受け入れられたとはいえ、社会主義改造後なお個人経済が一定範囲存在するという点までは、受け入れられたとは言えないと結論付けている。

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