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趙紫陽と逃港事件 1962/04-07

 蘆躍剛『趙紫陽傳』INK印刻文学出版2019年pp.446-455をまとめた。

 新中国が成立したあと、新中国で政治的な弾圧の波が高まるたびに香港に逃れる人がいた。1962年4月から7月。大陸の飢餓からのがれようと10数万といわれる人々が、深圳にあつまったとされる。この「難民」にどう対処するか。このとき現場で対応にあたったのが広東省委第三書記の趙紫陽であり、北京から指示を出していたのは周恩来である。周恩来は収口命令(閉鎖命令だろうか?)を出したという。
 趙紫陽はこの問題に穏和に対応した。難民は生活苦から、脱出しようとしているのであり、救済の食料をだすこと、武力を用いないこと、説得してもなおなお出たいものは、行かせればよい、とのスタンスであった。
 「反逃港」工作により5月22日から7月8日までに5万を超える人々は、故郷に戻ったとされるが、しかしかなりの数の香港への逃亡があったことも事実だろう。
 趙紫陽は、問題は人々が食べられないため、香港に行かざるを得ないことにある。また行うことは説得を主として、去るものを減らすことだ、とのスタンスを最後まで変えなかった。また難民が、何か陰謀を企てているとして弾圧することに反対した。しかし彼の意見は、省委第一書記の陶鋳により否定され、その結果、1962年6月6日広州市東駅に膨れ上がった群衆を解散させるために解放軍が投入された。
 この問題の構図は1989年の六四事件における、趙紫陽と鄧小平の意見の対立とよく似ていると蘆躍剛は述べている。(なお趙紫陽はその後、広東省委第一書記に就任するが、文革により、解任される。ところが趙紫陽は、1971年5月、周恩来の手配により、内蒙古自治区革命委員会副主任として、いちはやく政治に復帰している。この逃港事件における趙紫陽のスタンスで、周恩来をして感服させるものがあったのが趙紫陽の早期復帰の一つの理由かもしれない。)

#趙紫陽 #逃港事件 #香港 #広東省

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