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叶兆言「失踪的女大学生」『長江文芸』2015年第1期

 この短編小説は何回か読み、しかし今までここでの紹介には至らなかったもの。それは後述するように、この小説の作品としての完成度に強い疑問があるからだ。今回、おおまかに内容について述べ批評する形で紹介する(写真は、「浜離宮庭園」から隅田川越しに「勝どき」方面を見たもの)。
 二つの部分から構成されていて、標題の女子大学生の失踪の話は後半。前半は一見それと無関係に思える筆者叶兆言(1957-)の祖母や父方叔母など親族女性が受けた大学教育について語ったもの。後半が女子学生失踪の話。この女子学生は筆者の母の介護をしてくれる女性の娘さん。祖母や叔母の時代とは女子学生といっても様変わりしている。教育は大衆化。ごく普通の商学院の娘さんらしい。女性はその娘さんと連絡がとれなくなり、大学に連絡してみると1週間あまり登校していないことがわかり、それは一大事と大騒ぎになり、筆者を含めて娘さんを探す顛末が描かれる。フォロワーの多い、筆者のネットのブログを使って探すというところがいかにも現代的。
 ただこの後半の話が前半の女子高等教育を受けられるのが一部の女性に限られていた時代と、大学教育が大衆化した現代との対比にあるということは理解できるのだが、この小説は今一つ全体として何を示唆するのか、何を言いたいのか分からない点が残り、小説としての完成度には強い疑問が残る。
 筆者叶兆言(1957-)の祖父葉聖陶(叶圣陶  1894-1988)は著名な民主派の人物。この短編では、祖母(北京の女子師範で学んだとある)について語る形で、祖母が60余歳でガンで亡くなったとき祖父葉聖陶は62歳で、その後、30余年、再婚しなかった葉聖陶の姿が描かれる。また父方の叔母(姑姑)は金陵女子大学で学び専攻は中国文学であったが、金陵の英語教育の水準は高く、中央国際放送局に勤めたとしている。
 その従姉妹(姑姑的表姐 中国人民解放軍軍事工程学院で学んだものの、進学早々文化大革命がはじまり運動ばかりで何も学べなかったとする)の夫の一族が被った、文化大革命での受難も描かれている。
   ただたとえばこの文化大革命の受難のところと、後段のいかにも現代的な若い女の子の失踪と、女子学生の生活の対比といえば対比なのだが、あまりに内容に違いがある。このように、一つ一つの話が、全体の中でどうつながるのかよく理解できない。機会があればこの小説は何を描こうとしているのか、一つ一つの話が何を示唆するのか、筆者叶兆言と議論したいところである。

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