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ブレマー『自由市場の終焉』2010 権威主義=国家資本主義論 

 イアン・ブレマー 有賀裕子訳『自由主義の終焉 国家資本主義とどう闘うか』日本経済新聞出版社2011年 Ian Bremmer, The End of Free Market, 2010  ブログの標題は本の題名を英語原題の『自由市場の終焉』に戻している。
(解題)ブレマーの主張はかなり明解で理解しやすい。権威主義体制が市場主導型の資本主義を受け入れた仕組みとして「国家資本主義」を考え、中国をその一つとしている。しかし国家資本主義はあくまで仕組みであって、社会主義のようなイデオロギーではない、としている。現在の対立は資本主義と社会主義との間ではなく、国家の役割をめぐり、自由市場資本主義と権威主義体制との間で対立が生じているとする。後者が国家資本主義の仕組みを採用したことで、両者の対立は、自由市場資本主義と国家資本主義の対立として現れているとする。
 なおブレマーは新興国に権威主義体制が多いと述べているように思える。他方でブレマーは、経済における国家の役割について認めているものの、かなり限定的な立場のようにも思え、そのことが彼の立論を制約しているようにも思える。今回、底本には原書でなく訳書の方をつかった。

 国家が市場の働きにどこまで介入すべきか意見を一本化できない p.9
冷戦の終焉によって自由市場資本主義はついに勝利したのではなかったのか。 p.9

 共産主義の凋落は自由市場資本主義の勝利を意味しなかった。なぜなら、権威主義政治が葬り去られたわけではないからだ。p.11
世界中の権威主義体制が、市場主導型の資本主義を受け入れて国際競争力を高めようと考えるようになった。・・・p.11
 権威主義体制は・・・新しい仕組みを考えだした。それが国家資本主義である。この仕組みのもとでは、政府は様々な種類の国営企業を使って、国にとってきわめて重要だと判断した資源の利用を管理したり、高水準の雇用を維持・創造したりする。p.11
 えり抜きの民間企 以下p.12 業を活用して、特定の経済セクターを支配する。いわゆる政府系ファンドを用いて余剰資金を投資にまわして国家財政を最大限に潤そうとする。これら三つすべての場合において、国家は市場を通して富を創造し、上層部がふさわしいと考える用途にその富を振り向ける。くわえていずれの場合も、おおもとにある動機は経済ではなく政治に関係したものだ。経済を最大限に成長させることよりも、国力ひいては体制の権力を保ち、指導層が生き残る可能性を最大化することを目指しているのだ。これも資本主義の一形態であるが、国家が経済主体として支配的な役割を果たし、政治面の利益を得るために市場を活用するのである。p.12

 中国とベトナムの政治指導者は名ばかりの共産主義者だ。両国ともいまだに警察国家であるが、かつてはマルクス主義、レーニン主義、毛沢東主義を正当性のよりどころとしていた政府も、もはやこれらの思想に忠実ではない。p.16

 情報通信技術が進歩したといっても、これまでのところ権威主義体制を崩すほどの力は示していない。中国では、2009年のある時点でネット人口が3億人を突破し、アメリカの総人口を上回った。中国政府はこれまでのところグレート・ファイアウオール(防火長壁)を活用して技術の進歩に遅れを取らないできている。p.21

 中国では3億人超がインターネットを使うにもかかわらず、彼らのあいだで中国人としてのアイデンティティが弱まったといえる証拠はない。2008年の北京オリンピックの前後・・・むしろ逆の傾向が読み取れる。・・・中国共産党は過去何年にもわたって国民に安心と機会を提供してきており、この条件が満たされている間は、多くの国民は同一の理念、制度、法律を受け入れ、別の理念、制度、法律のもとにある人々との対比をとおして自分たちのアイデンティティをとらえる。p.24

 中国やロシアほか多くの新興国では、政治上の意思決定者は、国内経済の将来に果たす自分たちの役割を・・・政府の富、政府による投資、政府企業の活用こそが、政治体制を存続させながら経済を発展させる何より確実な道だという考え方が見えてくる。・・・今後も経済のあらゆるセクターを微に入り細にわたり管理することによって・・・自分たちの国内での政治的//を守ろうとする・・・p.34

 国家資本主義は、社会主義下の計画経済が21世紀的な装いで復活したものではない。官僚が巧みに運営する資本主義であり、政府ごとに特徴を異にしている。政府が主に、政治上の利益を追求するために市場を主導する仕組みである。この潮流が広がると、国際政治上の摩擦が起き、グローバル経済に歪みが生じるだろう。p.35

 国家資本主義と自由市場資本主義、ふたつの陣営を区別するはっきりした分水嶺があるわけではない p.62
ほとんどの国が両方の性質を備えている p.62

右半分 民間の企業や投資家の行動を規制する政府の役割が法的に制限されている国々
左半分 政府が経営運営に中心的な役割を果たす国々

 2008年以降は、世界不況のせいで何十ケ国もの政府がスペクトルの左方へと移行した p.64
アメリカは国家資本主義国になったのか?とんでもない。自由市場主義国はみなある程度の政府介入を行うものであり、景気の悪い時期には特にその傾向を強める p.64

 自由市場資本主義と国家資本主義のあいだには二つの根本的な違いがある。第一に、政策当局が国家資本主義を掲げる際には、壊滅した経済を再建したり、低迷する契機を活性化させたりするために一時的な手段を意図しているのではない。戦略に根ざした長期的な政策判断なのである。第二に、国家資本主義者は市場を個人に機会をもたらすものとしてではなく、主として国益、あるいは少なくとも支配者層の利益を増進させる手段とみなしている。p.69

 国家資本主義は社会主義とは異なり、市場経済から距離を置いて指令経済を目指そうとはしない。p.70

 彼らは市場を廃止しようとするのではなく、自分たちの目的に沿って利用しようとする。社会主義ではえてして、長期にわたって少しずつ国家統制を強めようという考え方が取られる。p.71

 「政府は市場介入をいっさい控えるべきだ」とする議論は、すべて不合理である。なぜなら、市場には自己規律の力も意思もないことは、何世紀にもわたり繰り返し証明されてきたからだ。p.186

 (では)政府が乗り出して市場を主導すべきなのかだろうか。答えは「ノー」である。政府が国家資本主義の手段を使うのは政治上の目的を達成するためであって、公共の福祉に奉仕するためではないからだ。国家資本主義は、多くの富を生み出す活動に最大限のコントロールをおよぼして、政治上
p.187   のリスクを最小限に抑えることを可能にする。およそ経済効率を高めたり、経済成果のより公平な配分を実現したりするための手法ではないのだ。p.187

   国家資本主義は、不公正と戦うためではなく、政治的な影響力と政府の収益を最大化するところにその原点があり、人々の心に強く訴えかける力を持つものではないため、他国に広めるのが極めて難しい。国家資本主義は、首尾一貫した政治哲学というよりむしろ、ひと揃いのマネジメント手法に近いのだ p.208

(ブレマーは市場が無秩序であることは指摘しその限りで政府の役割を肯定するが、他方で効率や公平の面での政府の役割には否定的だ。しかし市場の役割にゆだねるだけでは、所得や富の格差は拡大が続くのではないか? 政府の役割強化がすべて国家資本主義であるかに説明しているようにも思える。福光)

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