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滿妹「胡耀邦下の経済論争 1979-83」2016

 胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)が1987年に総書記を引退する経緯について7項目にわけて、胡耀邦の娘の滿妹がまとめている。そのうち経済に関係する最初の2項目の概略を述べる。なかなか興味深い。滿妹《回憶父親胡耀邦》天地図書有限公司2016年  pp.720-731

1.生産目的をめぐる論争
 もともとは宣伝部長として中央指導部の講話を用意する際に生じた問題で(1979年5月から10月)、胡耀邦は社会主義生産の目的が明確でなく、管理体制で高度であることが生産力の発展を妨げているとした。農業や軽工業、人民の生活が軽視されているとした。これは彼の講話(10月9日)や、彼が指導していた「理論動態」の記事を転載した人民日報(10月20日)などに示されているとのこと。またこの発想のもとに、于光遠(ユー・グアンユアン 1915-3013)の生産の目的は消費にあるという記述があるようだ(1976年にマルクスの経済学批判要綱を検討したことがベースにあるともしている)。于光遠は、生産の目的を明らかにすることは大事だと1979年に主張して、胡耀邦を側面から支援したが、生産の目的は消費にあると、マルクスを読み込む点で二人が一致していたことを滿妹は示唆している。
 これに対して、当時の工業担当副総理(記名されず)が、これは「まず生産をして、生活はそのあと」という大慶の経験を否定するものだと反発、胡橋木,鄧力群も反発した。胡橋木は人民日報の討論を抑えるよう華国鋒、鄧小平に対応を求めて上訴し、鄧小平の同意を得た。胡耀邦は、大局を考え、党の団結のためこの論争を引く決断をするが、胡續偉は胡耀邦の決断に納得できず、書簡を出して翻意を迫るが、胡耀邦は中央に従うと頑なだったとのこと。

2.  第六次五カ年計画と4倍増をめぐる論争(1983年3月の危機)
 1982年。この年9月の第十二次全国大会で、「中国特色のある社会主義」が明確に提出され、また、党主席制をやめて、総書記制として集団指導体制をとることが明確になったとされる。中国経済建設の戦略目標として、不断に経済効率(公益)を高める前提のうえで、工農業生産を1980年に7,100億元を2000年に28,000億元前後つまり4倍増にして人民物質文化を小康水準にする目標が掲げられた。
   経済体制の表し方については「計画経済が主で市場調節は補」という観点と、薛暮橋(シュエ・ムーチアオ 1904-2005)や林子力が主張した、企業を独立経済実体として企業経営活動を市場調節する社会主義商品経済の観点とが対立した。経済経済派の軍人(記名されず)は、我々の経済を商品経済とすることは社会主義と資本主義の区別を曖昧にするとの書簡を中央に提出、胡橋木はこの手紙を中央指導部に届けるとともに薛暮橋らを批判した。
 鄧小平が「社会主義も市場経済を行える」と談話でのべたのは1979年11月26日。(しかしこの鄧小平の考えはなお一般化していなかったといえよう)
 胡耀邦はまだ時期は熟していないと考え、報告を計画経済が主で市場調節が補の原則を正確に貫徹する、市場調節の作用の発揮に継続注意を要するなどと妥協をはかった。
 経済規模を4倍増にする目標については1980年代初めに胡耀邦に鄧小平に提出していたとする。第六次五カ年計画について6-7%の経済成長率を提起した。これに対して国務院総理の趙紫陽、財経工作担当の姚依林は過度の成長は経済を破壊しかねないとして2-3%の成長率ができるだけと主張した。
 この論争は鄧小平の裁定により、4.5%。国務院の表現では4%を確保し5%を争う(保四争五)で決着した。(このあと滿妹は実際の該当時期の成長率が平均で10.7%となったこと、経済計画の大きな方針を決めるのは総書記の役割ではないか、などの不満を述べている。ただ急速な高度成長に問題もあったので、この論争について勝敗をつけることはむつかしい。また中央秘書長として、国務院総理を人選するなかで、胡耀邦が趙紫陽(チャオ・ツーヤン 1917-2005)を推薦するに至った経緯も明らかにしている。趙紫陽については経済工作に長けているとの評価があった半面、資歴:経歴が短いことに難色を示す人もいた、最終的には広東で葉剣英に会い、同意を得たことが胡耀邦が趙紫陽を推薦する決め手になった。滿妹は趙紫陽との対立などを強調している。その見方が正しいかどうかは分からないが、胡耀邦の一家としては趙紫陽に不満があるということであろう。)
 しかし議論はこれで終わらなかった。1983年3月17日の中央政治局会議。ここで陳雲が激しく胡耀邦を批判。六次五カ年計画の数字の引き下げなどを求めた。この会議(常任委員会会議)に陪席していた鄧力群は、その日の午後、この話を新華社の全国分社社長会議で伝達した。その話を伝え聞いた鄧小平は、何か問題が生じているのかと鄧力群を問いただした。漏らしてはいけない会議の模様を伝えてしまった鄧力群は言葉に窮した。常任委員会終了後、胡橋木と陳雲は話し合い、会議の記録ができ次第、全国第一書記会議を開催、討議にかけることにした。しかしなぜか胡橋木は鄧小平に報告しなかった。消息筋によれば、この会議で胡耀邦を批判し総書記から降ろす計画。後任候補者は鄧力群であった。
 ただこれに対して、葉剣英は激しく反発。葉の意見を聞いた鄧小平も「これは私のしらないことだ」として各省に北京に来る必要はないとの伝達を出し、現在の体制は変わらないと宣言した。この背景として、中国の遅れた状態に対する焦り、そこからできる限り早い経済成長で脱却することを希望する、などで胡耀邦と鄧小平が一致していたこと、これを滿妹は指摘している。

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