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趙京興「私の読書と思考(上)1966-1967」2012/03

 訳出の対象は趙京興「我的閲読与思考」『暴風雨的記憶』三聯書店2012年3月pp.341-362。その前半pp.342-355を2回に分けて訳出する。今回はpp.342-349まで。
 「社会主義社会」は、一面で共産党の高級幹部という新たな貴族を作り出した。そこで出てくる疑問は、文化大革命というひとくくりにされる動きの中に、実は中国社会の現状に対する疑問や批判も隠れていたのではないか?というのが、この趙京興の文章から浮かび上がる疑問である。最初に趙京興は社会が教える人生観に疑問を感じる。そして感じた疑問の答えを求めて、膨大な読書を行っている。現在から振り返って趙京興は、既得権益者に本当に破壊的だったのは、文革ではなく改革開放だったとしている。
    白羽の文章にも登場する趙京興は1969年初に思想犯として入獄。1973年から労働者として働いたが、1980年から『中国社会科学』雑誌の編集。1986年からは中国社会科学院数量経済与技術経済研究所で研究員を勤めた。

p.342    一 なぜ読書するのか
 「文革」爆発(訳注 1966年6月)のあの年、私は北京四中の初三に在籍していた。私がみるところ「文革」にはおよそ一種の必然性がある。「もし沈黙中爆発したとか、あるいは沈黙中死亡した」というなら、もしその中の「沈黙」を「煩悶」と変えるなら、当時の
p.343  私の心境に合っている。文革前の数ケ月の日記中に、私は魯迅の詩句「声も出さず雷を聞いて驚く」を用いて、私が受けた深い印象をまとめた。私たちが直面したのは時代の疾風と突然の雨であり、すでにはるか遠く地平線上に鈍く響く雷の声だった。同じ日記を、ゴーリキーの「海燕」の中の名言「暴風雨がさらに激しさをますことになった」で私は閉めた。
   「およそ合理的なものはすべて現実的であり、現実的なものはすべて合理的である。」今回最初からあの歴史を見ると、まさに学校教育の危機は、一人の少年学生の内心矛盾を起爆(触发)させたのである。自ら脱出できにくいところに到って、ついには帰らない道を歩み始めた。
 教科書や先生の講義によれば、社会主義はとても良い(美好的)社会であり、搾取がなく、強制(圧迫)もなく、人々は平等である。事実は決してそうではなかった。四中の一大特徴は高級幹部、高級知識分の子弟が雲のように集まっていることだ、父君には部長、将軍、教授、エンジニア、国家指導者までいた。絶対多数はとても低い位置にあり、とても平民化していると言わねばならないが、無意識の一挙一動からは生活の豊かさや優越がにじみでている。彼らは明らかに異なる社会階層と等級に属している。私は、両親はともに労働者である。毎月の収入はすべてを併せて108元だった(これは彼らの工場では高い賃金であり、彼らはこのことを自慢に感じていた)。それで我々六人の兄弟姉妹の衣食を賄わねばならず、とくに学雑費、製本費を出すときには、さらにキチキチだった。彼らは政治スローガン中のまさにまっとうな労働者階級で、公私合営前には小さな裁縫店で糊口をしのぐほかなかったが、合作後、工場に入り、成分は「独立労働者」とされた。多くの同窓生の家庭と比較して、我が家は経済地位、社会地位、政治地位において、大きな差があった。意識として卑屈になったほか、私をすごく困惑された。
p.344   更に私を苦しませたことがある。当時学校において、人生観として教育が捕まえさせようとしていた人生観は、先生の講義だけでなく、我々に大量の「人は一生をどのように過ごすべきか」といったたぐいの本を読まさせたそれは、ー単に休みなく完全を求める高尚な人生にとどまらず、気迫のこもった(轰轰烈烈)革命の一生、戦闘の一生というものだった。私を絶望させたのは、この人生の標準と比較すると、自分の一生はすべて送るべくもないものに見えた。私はしばしば自身の心の拷問者であり、拷問される側でもあった。心の中は支離滅裂で、自身混乱した考えを恥じて怯えもした。
 教えを乞える人もなく、敢えて先生にも聞かなかった。文革の少しまえの政治課で、私は政治の教師に尋ねた。「なぜ人民に服務せねばならないのですか?」と。先生は茫然とするばかりだった。もし彼が、私のような人はいつも非常識な(古怪)思い付きの話をするということを、わかってなければ私は反動学生の列に加えられることも十分ありえた。ーこのようなありふれた政治常識について敢えて予想されない質問をしたことで。
 唯一の方法は懸命に読書することだった。文学を読み哲学を読んだ。私は初二のときに、于光远の『政治経済学教科書』を二度読んだ。その中に回答を探し当てることを期待して。しかし同書の中に回答はなかった。
 思想に行き詰まった苦悶と、繰り返しの教室生活との差異は、私には苦痛だった。「文革」がついに爆発し、修正主義教育制度粉砕が宣言されたことは、わたしに一種の解放感を与えた。少なくとも自分のやり方で答案を探せる、既存のやり方をもはや気にしなくてよいと。
 毛主席の内部講話が同窓生の間に伝わった。彼は青年が「資本主義と修正主義を封印し」「深く研究して再度立ち上が」らねばならないと督励した。これは私を鼓舞すること大であった。私は読む範囲を未だ限定してなかったが、特権(尚方宝剑)をもっていた、私は気宇壮大にも(堂而皇之)トルストイの
p.345  『復活』を自習課の卓上に置いたが、誰も口出ししなかった(没人敢说三道四)。
   いくつかの本は私に大きな精神満足を与えた。それは本の中に何か答えがあったからではない、それらの著者の環境は私と大差なかったー思想の泥の穴から抜け出そうとしている、私は知っているから引き込まれたのだ。魯迅からドストエフスキー、トルストイからフォイエルバッハ、ヘーゲルそしてカント、私は彼らの書物の中に他の人が気付かない(読不到的)ものに気が付いた。深く晦渋なへーゲルやカントが書いたものは、すべて個人の思想の歩みなのだと。或る時、趙振開(北島)が尋ねた。君が哲学を小説のように読むと聞いたと。私はどのように答えたか覚えていないが、しかし私は両者には確かに違いはないと感じていた、(ヘーゲルの)『精神現象学』はある種の小説であり、哲学概念を講述したのはその人の習慣(個人故事)だったからに過ぎないと。

 二 「出身論」と遇罗克
   1966年11月、「大連携運動(大串联)」がすでに終わろうとするとき、私と何人かの同窓生は長征隊を組織し、1か月余りの徒歩旅行を始めた。我々は北京を出発し、太行山を越えて、山西を通り抜け、陕北の山谷が縦横に広がる(沟壑縦横)黄土高原に入り、最後に延安に到達した。「万里の道を行くこと」は「万巻の書を読むこと」と同様に、私の頭の中に様々な謎を明白にした(解开了)。私が見るところでは、世界を認識するには「目(眼睛)」が必要である。さもないと、現象がない限り、背後の意味(意義)を発見できないから。いわゆる「目」とは主観が客観を認識する能力である。事実自身話せないことでも、認識はすでに客観であるというのもまた主観の認識能力である。これは私が当時形成した重要思想である、後に私は「哲学p.346   批判」の中で系統的に述べた。
 1967年初めに我々は延安から北京に戻った。『中学文革報』紙上に私は『出身論』を読んで、すぐに「あぶ(牛虻)」の署名で壁新聞を書いて、『中学文革報』と『出身論』を支持した。この新聞の出し手は「首都中学生革命造反司令部」。実際は背後には数人。その頭はわが校高二(二)の牟志京である。私と劉力前、劉新ら同じクラスの同窓生は「紅旗」戦闘隊を作り、『中学文革報』を支持した。
 ある人が私に通知して言うのは、「老紅衛兵(訳注:幹部子弟の一団を指す)」が北平馬司胡同で、『出身論』について弁論会を開くことになった。その叶子龙の住宅は没収されて「老紅衛兵」の本部になっている。会議室はとても広く、五六十人収容できるが、部屋は人で満ち満ちていた。主弁論をするため、我々は長い机の頭に陣取った。弁論の相手方は、机の周囲を囲んで座り、後ろに沢山の人が立っていた。当時私は遇罗克も会場に居ることを全く知らなかったが、彼は窓の外から見ていた。
 弁論会で私が何を話したか、すでに忘れてしまった。主弁論者として、私は場に臨んで上手にふるまった。ー思考は敏捷で、経典を引用した、加えてマルクス、レーニン、毛沢東の経典著作を卓上並べ、私たちの方が明らかに優勢だった。このことは遇罗克の関心を引き、彼はその後、私宛に一通の手紙を書いて、四中宛てに送った。しかし彼は私の名前を「趙金星」と書き間違い、我が校高一に同名の同窓生がちょうどいたので、手紙はまず彼のところに届き、1ケ月あまり転々として、ようやくわたしの手中に入った。
 遇罗克は手紙の中で魯迅を例に、偉人の悲劇的運命についてーしばしば後世に人がそれを利用することで、偉人たちの思想の本来の状態(面目)を損なっていると述べた。これは明らかに当時極左派による
p.347   マルクス=レーニン思想の歪曲乱用への不満を示すものだった。手紙の末尾に彼の家で一度話そうと誘っていた。
 この少し前だが某同窓生の家長が遇罗克の家庭背景を知った後、公然と干渉し、「紅旗」戦闘隊は集団で『中学文革報』の活動から退出した。このことについて、私はまったく不同意(深不以为然)だった。そこで約束して彼の家に行った。
 彼は、山の壁と建物の壁に挟まれた道に建てられた小屋に住んでいた。床を除くと字を書くための小さな机があり、壁には二層に木の板を並べた簡易な書架があり、哲学、歴史、文芸理論の書籍があり、その中にヘーゲルの『歴史哲学』があった。私はちょうどこの本を探しており、彼は私に貸してくれた。この本とその主人が、同様に不幸な運命をたどる(命途多舛)とは思わなかった。本は私の家から探し出して持ち去られ、遇罗克と私は鉄の鎖につながれて入獄し(锒铛入獄)、彼は不幸にも災難に会った(不幸蒙难)、本もまた彼の身辺には戻らず、おそらく紙の液体になってしまったろうか。
 遇罗克についての私の印象は、思考が敏捷で、舌鋒鋭く、閲読範囲が広いということである。我々の会話において、ほとんど『出身論』の一文に及ぶことはなかった。私は『出身論』は彼の思想の中のごく小さな部分だと信じている。その会話についていえば、弁論というものではなかった。彼は当時労働者だが、今日の標準に照らせば、彼は強烈な批判精神を持った知識分子であった。彼の唇はとても薄く、言葉の使い方はとても鋭利で、人をして弁論の熱情を刺激するものだった。我々は思想の交流と言葉がぶつかる快感を享受していた。
 わたしはまた遇罗克発案の遠足(郊游)に参加したことがある。参加者の多くは中学生だった。我々は一緒に自転車で香山に登った。彼はそのとき二十五六歳。恐らくまだ女友達はいなかった。彼は生活情緒にあふれた人で、初めから意気盛んで(兴起勃勃)山を登るときは、いつも人々の先頭にいた。
 1970年3月、私は獄中で彼の死を知った。同房の人たちは皆私が
p.348  あまり遠くないと考えていた。批判闘争において私の罪名はまさ私と私と)『出身論』そして遇罗克との関係であった。我々「出身論」を支持した中学同窓生は皆この「災難」に逃げ込んだものであった、戚本禹が関係しているという、彼は1967年4月に中央文革小組を代表して訓話の中で『出身論』案に関連する中学生はおおむね追究しないと表示した。
  私は当時、『出身論』は簡単な真理に過ぎないと考えた。父母の政治的性質(面貌)は血液型とおなじようには遺伝するものではない。たとえ「血統論」がなくても、このことは本来口にせずとも自明で、多くの人が旗を振り叫ぶまでもなく、遇罗克の命を差し出す必要もないことだと。しかし社会認識を深化するとともに、私には明らかになった、それは実際、ある種の人たちの感情の背後の権力と利益に触れたということを。『出身論』は建国以来作られた特権勢力に対する、いままで生じなかった攻撃だった。実際は、出身は特権勢力が特権を保持する防具(牌)の一つに過ぎない、私の知る限り、この観点で「出身論」を読んだ人はとても少ない。それどころか人々はしばしば悲劇を解釈で悲喜劇に変えている。遇罗克はなんども刑の前に重大問題を宣言し、刑期の緩和など好転を期するところがあった。多くの人は遇罗克のいつもの機知だと考え、これは同様の悲喜劇に進むものだと。私のみるところでは、彼にはきっと真の信念があった、自身の行為は「文革」の発起者の動機と一致している、鉾を特権勢力に向けるものだという。まさにエンゲルスが言うように、歴史にはしばしばこのような事情が発生する、人々はこちらの部屋に入ろうと考えたが、別の部屋に入ってしまったと。このように言える。一世代の人の闘争で、中国の特権勢力は最大限、力を弱められた、さもなければ改革開放はあれほど順調に進まなかった。しかし、本当に中国特権勢力に対して攻撃を行ったのは「文革」ではない、改革開放である。市場メカニズムが導入されたあと、金銭の力は計画経済時期に形成された特権勢力を迅速に打ち壊す(摧枯拉朽)打撃を与えた。しかしあのときに中国では、あらゆる
p.349  探索者は皆この点の認識がなかった。これがおそらく悲劇の根源だ。

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