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王德禄「高考1977:永遠の感動」1976-1993, 2014出版

 王德禄は1977年の高考組だが、自分の希望したところとは異なる華東石油学院(現中国石油大学)物理系に合格する。挫折なのだが、そこから立ち直ってゆく。進学時、学校はまだ整備途上。設備環境のひどさが語られる。
    改めて思うのは(日本でも同じだが)、みんなが北京大学や清華大学など一流大学に行くわけではないということだ。では准一流とか二流に進んでからどうするか。そこで待ち構えているもには何で、それにどう対峙するのか。教員に関しては(日本でも同じだが)、どの大学にもいろんな先生がいる。学生に関しても同じだ。出会いの可能性はどの大学でもある。この著者が賢いのは、進学してからのその後の行動だ。
    卒業後、涿州の石油部物探局に配属されるが、交渉して(北京の)中央電大での教学への配属を実現する経緯が述べられる。彼は自分で選択して人生を切り開いてゆく。このように自主的に人生を切り開くことが、文革後、可能になったとしている。王はその後、長城企業戦略研究所を設立。現在、その所長として活躍している。
 王德禄「高考1977:永遠的感動」『那三届   77,78,79级大学生的中国记忆』中国对外翻译出版有限公司2014年1月pp.21-26

 p.21   大学の夢とは、私に言わせれば、前途の錦のように美しい未来をあこがれるものだが、かつて止むことなく現れた。最後に開花するかの結果は幾分人の意の及ばないところであるが、しかし私は中国の改革開放の大潮の中に加わることが出来、大変幸せに感じている。数十年の時が経った、中国の平和勃興(和平崛起)の歴史が全国人民の前に展開されているが、これは近100年の中国人の努力奮闘の結果である。

大学の夢:1977
    1976年深秋10月、私は「四人組」粉砕を慶祝する大デモに参加した。私に言わせれば、心の中に多年しまっていた夢が復活しそうであった。デモが青島市政府の門前で終わったあと、私は工場の同僚小顔と一緒に桟橋の下まで来て、岩の上に座り、心を開いて(海阔天空地)話しに話した、私は心にずっと隠していた秘密を小顔に告げたー俺は大学を受けたいと。小顔は聞くととても驚いた。当時は大学受験は痴人の夢、千夜一夜(天方夜谭)の話のように荒唐無稽なことであった。
    私はいつも、なぜあの夜、この大学の夢を話したのかはっきりしなかった。しかし仔細に考えると
p.22   原因はあった。1975年に私は高中を卒業した。高中段階で鄧小平が二度仕事に復帰し、国民経済の整理整頓に着手した。私の大学の夢はその時陰に陽に(若隐若现地)現れていたのだ。さらに私は政治に少し敏感だった。潜在意識の中で、「四人組」の粉砕と、試験に合格して大学に行く夢は密接不可分の関係だった。あの日は、その後の私の人生の中でいつもはっきり表れる、また私の人生の中で里程碑となる日なのだ。
    夢の実現のために、1977年に私は作業場の主任の職務の都合を利用して、職務の間にこっそりと復習した。当時、工場内の労働者たちは皆私に理解があり、私の付き合い方も悪くはなかったので、多くの人が私を助け、秘密を守り、安心して復習させてくれた。高中の物理の先生鄭先生は私に莫大な援助をして、参考資料を探し、模擬問題の重点難点の解析、批判的閲読することを手伝ってくれた。
 1978年2月初め、身体検査に参加した人に続々と通知書が届いた。しかしかなり経っても私には音沙汰がなかった。ある日、同僚の家に行く道で、それはとても平坦な道だったが、私はこけて叫び、膝も怪我して、手のひらも赤くなった。平らな道でこけたのは、私が今回の高考の期待値が高すぎ、受け入れがたい不利な結果になったことをおそらく意味していた。
 2日後、通知書がついに届き、私は狂わんばかりに喜んで開封したが、合格した学校が華東石油学院基礎部物理師資班であることを知った。のちに知ったのは、この学校は”文革”期間に山東東営に移転された元北京石油学院で、元の学校は北京八大学院の一つだった。この学校は当時、受験で志願した学校ではなかったが、国務院により確定された全国88の重点高等院校の一つだった。私は最終的にここを選択した。

私の大学
 勝利油田(訳注 1959年に発見された大慶油田に続き1962年に発見された大油田。山東省東営市が中心。なお大慶は2000年前後から原油生産量が減少して天然ガスへのシフトが伝えられる。他方、勝利油田ではシェールガスの発掘も進んでいると伝えられる。)基地に位置する華東石油学院に入学手続きに来て、学校の様子はまだまだであること(十分落後)を発見した。大きな村と大差ない。点のような建築は図書館、講堂、物理実験棟、女子学生宿舎棟、そしてわずか2棟の小実験棟、圧倒的大部分の建築は平屋で、男子学生宿舎と教員職工宿舎は"干打垒"房だった(訳注 木材で梁や柱を作り、壁は黄土や草を泥にして塗り固めたもの。と、煉瓦(砖)、石、土を用いて建築することを指す)。
 校内にはほとんどアスファルト舗装道路(柏油路面)がなく。先生と学生はそれを「水泥」路と呼んだ。晴れている日は細かい灰が舞い上がり、雨の日は泥になり、このため「泥水学院」の名前もある。排水は多くは自然の溝に頼り、大雨後の校内は深い海のよう、平屋が漂うように湖面上に顔を出し、我々は教室、図書館、宿舎、食堂の間、穴やくぼ地がさまざまある中を深く浅く一歩一歩進むしかなかった。かつレインシューズ(低腰雨靴)はいつも雨水が入ってきた。秋が来てわたしはレインブーツ(高統雨靴 訳注 高筒雨靴の意味か)は「防蚊靴」に使えることを発見した、当地の
p.23  蚊はとてもひどくて、彼らは飛行時、一突きで吸血してしまうのだ。夜自習時に、防蚊靴の効用は多大で、ズボンをはいてレインブーツさらに履けば防蚊の効果はとても大きかった。
 大学の授業外の文化生活も十分乏しかった。先生と学生の書画展を参観した。そこで私は戈革(訳注 物理学者で石油学院に勤めたことが知られている。1922-2007)の篆体書法の条幅「何止十年号牛鬼、并无一日信狐禅(訳注 この句はなお十分に解釈できていない。前半の牛鬼は牛鬼蛇神を指し、知識人が右派とされた10年を嘆じている。後半の狐禅は禅用語で悟っていないのに悟った様子をすることを指している。10年以上も牛鬼を叫んだのに、タダの一日も悟った様子で過ごすこともない。)」をみた。私はこの条幅の字を見てとても感動し、なんども戈革と話した。私はこのような詩に興味を感じる。自分はもともと時事政治に興味がある人なのだ。さらに講堂前の広場で越劇《紅楼夢》を見た。私と力学班の王魯平は早々とはしごを持ち込んで、大広場の良い位置を確保した。広場の映画を見る環境(观影坏境)は理想的ではなかったが、私は《紅楼夢》を見て思わず満面涙になるほど入り込んでしまった。
    1980年第5期《中国青年雑誌》は《人生の道はなぜ歩むほど狭くなるのか》を発表し、すぐに全国千百万の青年が参加する討論を引き起こした。当時のメデイアはこれを「人生観大討論」だといい、これは当時とても大きな思想事件だった。改革開放前、あらゆる人生観の宣伝はすべて雷锋(訳注 レイフェン 1940-1963     解放軍戦士 人民に奉仕する態度や精神が模範的であったとされ学習の対象とされてきた。)の強調だった、ネジになれ、公がすべてで私を無くせ(做螺丝钉,大公无私)、一人一人自分の生命と理想をすべて集団の中に完全に融け入らせよ。潘晓の手紙のなかの一言を覚えている:「人の主観とは自分の利益(为自我)のこと。客観とは他人の利益(为别人)のこと。」。この討論の中で「人生の自己設計(人的自我设计)」というこの種の観点が出現した、私はこの種の観点にとてもあこがれた(十分欣赏)。このように言える、その後の私の人生の道は、まさに不断の自己設計と自己選択だったと。

最初の自主選択
 計画経済制度下、労働者、農民、教師さらに学生を問わず、一度学校(訳注 大学の意味か)に入ると、すべて「准幹部」の身分に変わり、卒業後はまた「統包統配(訳注 配属を一方的に指定されることを指す)」されて、新単位に入社(报到)して、すぐに正式に国家幹部になった。これと今日市場経済制度下の大学卒業生が普通労働者の身分でいたるところで仕事をする単位を探し、「自分で選んで就業」するのは明らかに違いがある。この種の大学卒業就業制度に生じた巨大な変化を見ると、多くの感慨を禁じ得ない。
 20世紀80年代初め、中国社会は急速に変化を始めた。それは「五四」時代の啓蒙の伝統につながる、一種の「啓蒙」時代だが、価値観が正され正常化する(拨乱反正)場面だった。当時、「個人の主体性」「個人の自己設計」と言った言葉に関する議論になる話題が常にあった。理想を胸に抱いた多くの学生が、未来に行く大きな図面の前で、自己設計を始めていた。
p.24    まずは祖国建設の「一つの煉瓦」「一つのねじ」「一つの路石」になれとの宣伝教育が挑戦を受け始めた。
    卒業後私は(河北省)涿州の石油部物探局に配属された。しかし私は物探局が中央電大の教学点を持つことを知っていた。そこで私は、電大に行ければよいが、そうでなければ辞退すると申し出た。人事処長は驚いたであろうが、ちょっと研究させてくれと答えた。私はもし申し出が受け入れられねば三つの選択肢があると思った。一つはもう一度大学に新たな分配すること、もし新分配はできないというときは、組織分配は私の希望とも符合すべきだと、大騒ぎする。もう一つは故郷の青島に帰り、自由に職業を探す。三つ目は南下して深圳に行き、創業の機会を探す。
 半月後のある日、物探局指導部(领导)はついに私の請求を批准した。ここから私の人生の軌跡には初めて歴史的変化が生まれた。私は物理学史、核武器と核平和、科学社会学、科技政策などの研究方向にそって、順序を追い少しずつ進んだ。最終的には長城企業戦略研究所を創業し、自主創業の道を歩んだ。この配属は、私の人生の最初の自主選択であり、また私が大学で人生を反省した結果だった。

大学は私に何を与えたか?
 独立の人格。”極左”の年代に成長し、下放し、また労働者を経験し、何をするにも指導者の顔色をみて事を進めた。我々の時代の人は独立人格と自由思想を全面的に抑圧され、個人の自由な発展は議論もできなかった。大学に進学することで、再び生まれ変われることができた。大学にいる間、体力仕事の圧力はなくなり、独立して全面的に問題を考えることができ、絶えず反省した。この4年は、私だけではなく、全民族の等しく反省していた。我々という民族は”文革”などの一系列の極”左”の運動からいかなる教訓を引き出すべきか。我々若い人は、人が生きることは詰めれば何のためかを考えねばならない。人生の意義とは何か?大学4年間の時間の中で、我々を変異(異化)させていたものが次第に減少し、正常人の価値観が次第に増加した。
 改革開放への信念をさらに固めた。4年間の大学生活は、私に思想上の解放と精神上の独立をもたらした。あの不正常な時代に居たこと、もちろん学校で受けた教育、さらには下放(下郷)や労働者を勤めた経歴により鍛錬されて、人の自主思惟は余りに多く禁止され閉じこまれた。正にこの4年の大学生活は、これらの桎梏の鎖を打ち破り、心の中で自身に回帰することだった。20世紀50年代に生まれた人のこの種の感覚を、80年代以降の人(80后的人)は想像したり理解することがむつかしい。大学卒業後現在に至るまで、
p.25    反改革開放(の動き)が出現するたびに、わたしはいつも旗幟鮮明に立場を表明した。鄧小平が唱導した改革開放事業を擁護(捍卫)すると。ともかく私は改革開放に感謝せねばならないし、鄧小平に感謝せねばならない。鄧小平が完人(欠点がない人)ではないとしても。
 広範な人脈関係。私が高等科学技術産業に対しコンサルタント(询问)をするとき。人脈関係の網の目は、創業成功のカギの一つだった。現在から思い起こすと、大学が私たち一人ずつに人脈関係を広げ提唱したことは重要な作用があった。20世紀には二人の偉大な科学者がいる。相対論を発見したアインシュタインと、量子力学の開拓者ボーア(玻尔 訳注 ニールス・ボーア 1885-1962)である。中国ではアインシュタイン研究の筆頭科学者は許良英であり、ボーア研究の筆頭科学者は戈革である。私は戈革の学生となり、戈革の紹介と推薦により許良英の私淑弟子になった。無意識のうちに世界でもっとも偉大な科学者であるアインシュタインとボーアの学風の影響を受けた。これは私に北京の学術圏で独特の位置を獲得させた。私はその後、北京の学術界でとても活躍することになり、北京学術圏で科学史、社会学、経済学、哲学での交流は本当に多い。現在考えても大学が私に人脈関係をあたえたのである。私はこれらの人脈関係を使い、私自身の発展道路に出た。
 科学方法論。科学方法論は私が大学時代に獲得した最基本技能である。近代科学には二つの来源がある。一つは厳密なユークリッド幾何学であり、一つは仮説を実験する方法として実験を用いることである。私が学んだのは物理学であり、科学方法論の訓練として二つの来源をえることができた。私の80年代の学術時代(生涯)と90年代の民業(下海)において、いずれも科学方法論の訓練から得るところがあった。80年代の主要は科学史、科学社会学、科技政策であったが、これらの学術活動の中で科学方法論は重要な役割を果たした(科学方法论起到了举足轻重的作用)。記者がわたしに何によってコンサルを成功させたのかと尋ねるとき、私の回答は、私は物理学を学び、厳格な科学方法論の訓練を受けたからというものである。

私は三つの十年を見た
 80年代の最大の特色は思想の解放だった。これと対応する時代は中国の"五四(運動)”とフランスの”啓蒙運動”。もし80年代がどのような結論だという話なら、それは”科学と民主”である。現在人々は80年代全国上下にすべて改革開放の共同知識が形成されたと広く認識している。そしてこの共同知識の基礎は実際上は”科学と民主”である。80年代の思想解放は混乱した状態の正常化から始まり、傷痕文学、朦朧詩、人生観討論、農村改革、都市改革、新技術革命の波を歓迎する、政策決定の科学化と民主化、万元戸の勃興、個人
p.26     経営の合法化。
 90年代の最大の成果は市場経済である。これは"五四”運動がうかつにも略した事情であった。90年代、市場経済は科学と民主の基礎になり、実現の一つの必要条件になった。次のように言える。90年代の市場経済探索は全民族共同努力の結果であると。その中には民業に下った知識分子がおり、思想を持つ公務員、そして次第に成熟した企業家がいた。これら三種類の人々は中華民族のため大きな戦功を収めた(这三类人为中华民族立下了汗马功劳)。
    1993年末、私は商業世界に入り、長城企業戦略研究所を創業した。民業入りしてから、長城所の主要サービス対象は民間の科技企業である。当時、およそ各省にすべてに経営規模一億前後の企業が一つ二つあった。これらの企業は長城企業戦略研究所の主要顧客グループだった。長城企業戦略研究所は創業の自由のため大量の工作を行った。のちに創業者サービスの各種の工作は全国各地で次々に展開された。90年代末、北京市の各級政府は創業がさらに簡単になるように、各種の社会承諾を集中して執務するようにした。こう言っていい。創業自由は経済民主の一つの重要部分で、また中国が健康に発展できるかの一つのカギである。
 21世紀の最初の10年間に、中国はすでにグローバル経済に溶け込んでいる。この10年の中でもWTO加入は、指標になる事件である。世界を舞台として中国のモノ作りは地面で売るものからスーパーで売るものまで、百元商品から千元の製品まで、最初の跳躍を実現した。この10年間、長城所の影響力のあった課題は「中国のモノづくり」であり、中国が取得した世界第一の製品種類についての報告であった、この二つの報告は国内外で大きな影響があった。中長期科技計画(规划)は「自主創新道路を歩み、創新型国家を建設する」戦略を提起、これは中国平和崛起となり、転変発展モデルの重要な計画であり、同時に創新は支持する科技コンサル業に新たな発展機会を提供するもの。
 77年に高考が開始されてからの、改革開放の30年、我々の青春から晩年まで、それぞれの重大な歴史段階をすべて完全に経験した、80年代の思想解放、90年代の市場開放、00年代のグローバル経済、それぞれの時代はすべて私たちの世代(地方)に印象深い、しかしあの年の高考ほど、一つの事件で人の心を揺り動かし、歴史の記録に残ることはない。その後30年の改革発展は、中国の平和崛起の過程において、思想が先行すること、戦略が先行することが求められている。新たな一輪の思想解放は、起点の上に全面展開すべきである。科学、民主および市場経済は必ず全面開花すべきであり、新たな成果をもたらすべきである。

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