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高橋亀吉「私の実践経済学」1976

 高橋亀吉(1894-1977)の最後の本。東洋経済新報社刊行。
   高橋亀吉文書について
 本書末尾にある「旅路」によって、亀吉の生涯をたどると、山口県徳山の出身。家業(小さな造船業)の没落から、小学校を終えたあと、大阪船場の袋物問屋に丁稚奉公。しかし1年で見切りをつけ、単身朝鮮の城津にわたり、居留民相手の小売卸,貿易、軍への用達などを経験。早稲田の通信教育履修の道を見つけて、早稲田大学商科予科に21歳で入学。卒業後、久原鉱業に入社。1年8ケ月後、より自主的に開発しうるとして東洋経済新報記者に転身(27歳)。編集長に昇進(33歳)。その間、1年半にわたり欧米見学の機会。帰国後、社会運動にも関与。編集長を2年あまり務めた後退職。独立の経済評論家に転身(35歳)。経済評論とともに経済発達史研究進める。旧平価解禁に反対。高橋経済研究所設立。広く内外を実地視察。政府の各種委員会委員など。戦後は一時公職追放。追放解除後、経済評論に復帰、拓殖大学にて教授も務めている。
 民間のエコノミストとして生きて、高く評価されるようになった人だが、本書で述べていることは、輸入学問である「経済学」への批判になっている。ただ経済を実地に見るとは何を指しているのか。
 たとえば1970年代の物価騰貴は供給減によるもので、需要増による物価騰貴とは診断処方が異なるものだ。このように世界の現産品供給不足から物価高は、上げた方がいい。それを従来の物価高のように下げようとしてかえって病気が長引いてしまったと高橋さんは批判している。 
 こうした誤った判断になった背景は、アメリカ流の国内要因で物価を説明する考え方がもちこまれているからだ。しかし日本とアメリカでは物価の形成が違う。日本の物価は国際要因が大きいのだから対策も当然異なる。
 これは戦後の日本の経済成長についてもいえる。戦後、資源の立地で革命が起きたことが、戦後の経済成長に有利に働いたのである。
 40年(1965年)不況についても、戦後の日本の経済成長が、外国からの輸入品を代替してゆく、国内の自給率を高めてゆく第一段階から、輸出を中心とした設備の拡大という方向に転換を始めた38年(1963年)から40年(1965年)の変化を見落とし、国際収支の赤字のサインを過剰消費とみて、消費を抑える誤った政策をとったと批判する。
 そしてアメリカで行われた研究を直訳的に日本で応用する計量経済学的手法に対し、高橋さんはそうしたやり方では、経済の発展段階の違い、などから正しい推論が得られないと、警告している。それぞれの国民経済の違いをわきまえるべきだという言わば、当たり前の指摘だが、確かに、海外の雑誌に載った議論を日本でそのまま応用することが、研究論文の書き方だというような頭脳レベルの人が最近もいないわけではない。

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