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杜潤生(1913-2015)、于光遠(1915-2013)

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党内民主派と言える二人。中国の土地改革の指導者であった杜潤生(1913-2015)。清華大学で物理学に進学後、革命活動に転じた于光遠(1915-2013)。中共中宣部。国務院政治… もっと読む
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2018年11月の記事一覧

趙紫陽の政治体制改革論 杜潤生 1998

杜導正日記 天地図書有限公司2010 (写真は心光寺山門) p.120 1998年5月22日 (中略) 杜潤生は言う。趙紫陽は政治体制改革で幾つかの良い方法を考えた。たとえば中国共産党が認めそうもない三権鼎立、しかし将来、人民大会、政治協商会議、政府が一種の改革制度を用いる解決策(辦法)で行政権力を制約する。これは一歩前進である。また村荘内で支部委員選挙を進める。まさに党の基層で民主の実行を始める。これもまた一歩前進である。 #杜潤生 #趙紫陽 #三権分立 #心光寺山門

杜潤生「社会の発展進歩には制度の創新が必要」2000年7月18日

這是作者在中國體制改革研究會召開的“創新座談會”上的發言。《浅談創新 2000年7月18日》載《杜潤生改革論集》中国発展出版社,2008,pp.145-151,esp.149-151) p.145 1. 理論、制度、技術のイノベーション(創新)は、国家と社会の発展進歩にとり必備の内在条件である。イノベーションがなければ、停滞落伍するばかりで歴史的には淘汰される運命である。(中略) p.145 2. 3つのイノベーションのなかで制度のイノベーションがカギだ。イノベーション

杜潤生「民主の次第の建設」2008/06

「杜潤生文集(1980-2008)」山西経済出版社2008年、より「経済発展的幾項取向(2008年6月3日)」pp.1470-1472, esp.1472 (杜潤生「有関経済発展的几項新取向」 2008年9月(「杜潤生改革論集」中国発展出版社、2008所収)から底本を切り替えた。)(写真は心光寺の石仏。碑文は寶永元年1704年と読める)  市場経済が進む中でわが国の政治体制改革が経済改革に比して遅れることは、衣食住が解決された社会(温飽社会)から全面小康社会に向かう過渡に

于光遠「無産階級専制理論」1973/1993

(于光遠『『文革』中的我』広東人民出版社 1993/2011 より。今回使用したのは2011年の再版である。)(写真は肥後細川庭園にて) p.99 党の十大(第10回党大会 1973年 訳注)は無産階級専制下の継続革命の理論を引き続き肯定した。十大以後、『人民日報』『紅旗』などの新聞雑誌上相変わらずこの理論は絶えず宣伝されている。私は少し考えた。幸いまだ仕事がない。マルクス主義の古典を系統的に少し研究しようと。無産階級の専制理論については、レーニンが書いたものが大変多

于光遠「段階論争を経て社会主義初級段階へ」1979/1982/2010

(『于光遠経済文選』中国時代経済出版社 2010に収められた未発表原稿。pp.240-250 執筆時期は不明。) p.240 1979年2月に行われた理論工作検討会(務虛會)の分会において、蘇紹智と馮藍瑞が行った「無産階級が政権を取得した後の社会発展段階(階段)問題」という題での共同発言(以下蘇、馮の文章あるいは『段階』の一文と略称する)は参会者の好評を広く獲得し、整理したのちに『経済研究』1979年第5期上に発表された。これは大きな反響(極めて高い波(軒然大波))を引き

于光遠「”新民主主義社会論”的歴史命運」1996~1998/2008

(于光遠『于光運改革論集』中国発展出版社 2008に収められた「”新民主主義社会論”的歴史命運」の翻訳である。pp.174-182 執筆時期は1996年刊行自著への言及があるのでそのしばらく後。論文と同名著書の序文によれば、于光遠が1988年から1998年の間に作成したメモがもとであるが、1996年刊行図書への言及があるので、1996年から1998年の間に手を入れている。参照、于光遠『”新民主主義社会論”的歴史命運』長江文芸出版社, 2005; 任立新『毛沢東新民主主義経済

1-1 新解放区工作の重心

(以下は杜润生《杜润生自述》人民出版社2005の翻訳である) (写真は心光寺山門) 新区の工作重心についての討論 p.1 50年以上前の1947年6月、劉鄧大軍は中原にまっすぐ南進していた。わたし第一は軍に従い出発し、新たに成立した中共中央中原局に配属され、秘書長に就任した。この時私は34歳だった。 2年後(1949年5月)、中原局は華中局に改組され、私は引き続き秘書長を担当した。最初の指導者は鄧小平だったが、間もなく林彪に代わった。当時中央は「二野」は西南に、「三野

1.2 土地改革法制定前後

『杜潤生自述』人民出版社2005から (写真は占春園) 劉少奇報告の討論 p.5 1950年初め、中央は全会の開催を決定した。土地問題は議題の一つであった。土地報告を起草するため、私は2回北京に呼び出された。1回目は中央政策研究室副主任寥魯言が私に中南局の数人の幹部を北京に連れて行かせたもので、一緒に行ったのは張根生、任愛生など。ただ情況を報告した。もう一回は劉少奇の土地問題報告草稿についての意見交換のため、中南局の何人かが招集されたもの。それは湖南の黄克誠、江西の陳正

1-3. 土地改革は自由にさせるか偏りを防ぐかの二つの困難の間を進んだ

(『杜潤生自述』人民出版社2005から)(写真は占春園) p.10 新たな土地改革法と劉少奇の報告は、これまでの良い経験をすべて明確にしたものだった。土地改革が政府が頒布した法令及び方針に従うことが確定し、政策とその歩みは、指導、計画、秩序のもと進行した。政策方面ではまた新民主主義の戦略方針に従い、富農を保留し、私人工商業を保存し、中農を保護する。少数民族地区の情況にとくに注意し、各地の民主革命の決定で自主性を認める。特に西蔵については、1957年以前民主改革を行わないこ

1.4 土地改革の歴史的意義を解読する

(『杜潤生自述』人民出版社2005から)(写真は占春園) 土地改革:今日の農村の基礎を固める p.17 (解放)新区の土地改革の過程については、前編ですでに語ったところだが、土地改革の意義については、現在、誤解が多いあるいは理解が少ないところである。それゆえ解読を重ねて改め加えることは必要であり、その回答は中国内外の学者の関心問題のいくつかに答えることにもなる。  一部の人たちは現在、土地改革をすでに過ぎ去った過去の歴史事件で、もはや現実の価値をもっていないと考えている。実

2.1 中央農村工作部への初登庁

(杜潤生「杜潤生自述」人民出版社2005より)(写真は占春園) p.24 1952年11月、中央はしばらくの間、検討(籌劃)したあと、中共中央農村工作部の設立(成立)を決定した。鄧子恢を部長、陳伯達、廖魯言を副部長、私を秘書長とする。私は国務院第四辦公室(すなわち農業辦公室)副主任)の兼務であった(その主任もまた鄧子恢が兼任であった)。  農村工作部の中心任務は中央組織の支援と広大な農民の互助合作運動の指導であった。このほか農村工作の各項具体業務は政府の農業、林業、水利等

過渡期総路線 (2.2)

(『杜潤生自述』人民出版社2005から)写真は毛沢東 1954年1月。 革命転換(転変)の政策決定 p.33 1953年における中国の大変化は2つの革命の(間の?)転換であった。すなわち新民主主義革命が社会主義革命に向かう転変であった。当時、鄧小平は言った。今年(1953年)3月以来、毛主席が中心になり一つのことをした。すなわち過渡期の総路線を提起(提出)した。これは確実に中国の歴史の発展進路にかかわる最重大事件であった。 その過程は。中共七届二中全会の後の数年間、毛

2.3 合作化運動に影響した統購統銷

(『杜潤生自述』人民出版社2005から) (写真は心光寺石仏。碑文の年号は寛永1624-45 、慶安1648-52、明暦1655-58、寛文1661-1673など。右端の寛永19年1642年が、この画面上の碑文では最も古い。前年の寛永18年1641年に桶町の大火があり400人以上の死者がでている。この石仏はそれを慰霊するためのものかもしれない。心光寺はもともと寛永5年1628年に本郷丸山田町に開かれ、田町が御用地として接収され、承応2年1653年に現地に移されたとされる。傳通

2.4 無駄話をして道理を説かない

(『杜潤生自述』人民出版社2005から)写真は毛沢東 1954年1月。 再び批判を受ける p.43 年間の大半の仕事が終わった、1953年10月から11月、中央農工部は第三次農業互助合作会議を招集した(その後慣例になり、毎年上半期に農村工作会議を開き、下半期には農業互助合作会議を開いた)。鄧子恢は南方視察のため参加しなかった。  毛主席は会議前と会議期間中の報告を受けるとき、2回中央農工部を批判した。彼は言った。「むやみな突進(冒進)を急いで正そうとして、いつも同じ風を吹き